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和尚さんの法話 「因果応報」

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それで目連は、それを見てて、おまえはくねくねとうねってる蛇のような姿じゃなと言うわけです。
そこで色女は、はっとして、改めてみてみると、目連は悟った人ですから神々しい姿に見えたわけです。
それで、はっと、また仏心が起こってきたんですね。
私はこの世のことはもう捨てましょう。
私はもう仏門に入らせて頂こう。
あなた様のお弟子にして下さい。
と、目連に弟子にして欲しいと言うたんです。
それで、そうかそれならお釈迦様のところへ行こうというて、連れていくわけです。
お釈迦様の前で色女は、愚痴ともなく、懺悔ともなく今までのことを言うわけです。
母や娘に夫を奪われて、と同情してもらおうと思って言うわけですね。

で、お釈迦様は、前世にもそれによく似た話があるぞ。
やはり此の世におまえと同じように父親を亡くした娘が居った。
その母親が娘を連れて再婚をした。
そして娘が成長して、母親の夫と愛し合うようになった。
これを人事と思うて聞くなよ。
其の時の母親というのは、今のおまえの母親だ。
其の時の、付いていった娘というのは、おまえなんだ。
おまえは母に夫を奪われたというが、前世では、母親の夫を奪っているんだと、言うのです。
と、こういうお経があるんです。
そういうことで、その目連が外道に闇討ちにあって殺されるんですが、目連はお釈迦様の弟子で神通第一といわれてるほどなのに、何でこんなことが避けられないのかというと、これは前世の決定の業なんですね。
神通の、じの字も思い出せなんだというのです。
決定の業と目連は言うのですが、どういうことがあって決定の業になったのでしょうかとお釈迦様に聞くんですね。
ずっと、前世に目連がまだ在家に居った時分に結婚をしてました。
そしてお嫁さんと母親が仲が悪かったんです。
目連はお嫁さんの方に見方して、このクソババア殺してやろうか、と自分の母親を罵ったんです。
殺意は多少は抱いたかもしれませんが、このクソババア殺してやろうかと口で言ったんです。
目連は、過去世に自分の母親に言った罪で、何回この世へ生まれても、いつも死ぬときは殺されて終ってるんです。
仏教では、五逆罪という罪があって、父を殺す、母を殺す、阿羅漢を殺す、仏教教団を破壊する、仏様を殺すことは出来ないけれども怪我をさせることがある、この五つの罪を五逆罪というんです。
目連は、前世で殺したんじゃないんだけれども、母親にこのクソババア殺してやろうかと言うた。
口で言うただけですが、その罪によっていつも一生を終るときはいつも殺されて終ってる。
これは決定の業で、過去に何遍も殺されて終って、これでこの業は終ったというお経があるんです。
だからテレビでいろんなことが出てきますけどね、子供を死なせて悩む親もあれば、子供を殺されて悩む、それは過去世の何等かの原因があるんですね。
我々は分かりませんけど、仏様とかそういうお方になれば分かってきますけどね。
だから悪いことはしないことですね。
ちょっとでも善いことをするということですね。

二、
過去の因を知らんと欲せば現在の果を見よ
未来の果を知らんと欲せば現在の因を見よ
― 因果経 ―

と、こういうお経もあるんですね。
自分が、過去に、前世でどういうことをしてきてるのか知りたかったならば、その原因を知ろうと思うと結果は現在に現れてる。
だから現在の自分の身が幸せか不幸かを判断したら、現在が幸せならば、自分は前世で善いことをしてあったんだな、現在が不幸であれば悪いことをしてあったんだな、と分かるということです。
未来の果ということは、今度自分がこの世へ生まれて来たら、どんな一生を辿るか知りたかったら、日頃の行いをよく考えて、それが原因で結果が現れて行いが善ければ来世は幸せになるし、行いが悪ければ不幸だということです。

三、
水渧(すいてい)微なりと雖(いえど)も漸(ようや)く大器に満つ
小悪と軽んじて以て罪無しとする事勿れ
死後に必ず報い有り
― 因果経 ―

水渧の渧というのは、しぶきですね。
地面に一滴、二滴と落ちますが、その地面に落ちた水が細かくなりますね、その細かくなったのを渧というのです。
水渧微なりというのは、ほんのちょっとだということですが、そこにタライかなにか置いて、そのタライの外へ雨垂れかなにかが落ちる。
そのしぶきがタライの中へ入るんですね、これが間断なく続いてると、どんな大きな桶でも水がいっぱいになるということですね。
このくらいのことなら罪にはならんだろう、というようなことは思ってはいかんぞ、と。
必ず報いがある。
大は大なりに、小は小なりに必ず報いを受けるというお経です。
ということで、これが仏教の指導原理です。
そして、こういうことが信じられる前提が、霊魂が存在する、死後の世界が存在するんだということになってきますね。
だから死んで終わりじゃないです、ちゃんとあの世があるんだということを信じて頂いて、善いことをしたら善い報いがあるし、悪いことをしたら悪い報いがあるんだということを信じて頂いて、日々を送って頂きたいと思います。


和尚さんのお話ですが、或るときに遠方に行く用事があって、タクシーで行ったんだそうです。
そのタクシーの運転手が、「和尚さん、霊魂とか、神さんとか、あるんですか」と、聞くんですね。
で、和尚さんは、そりゃありますよと。
その運転手さんが、実はこんな話しがありますんや、といって話したんですが、
或る日に、客を乗せたんですが、そのお客さんは、服装も悪いし、人相も悪いので、えらい人が乗ってきたなあと、何か起こらなければいいがと思ったんですね。
それでも、仕方がない、乗せて走ったんですね。
で、しばらく走ると、お兄ちゃん! と、声がかかるんです。
それで、「おまえ、神や仏があると思うか」 と。
はあ、私はそんなこと分かりませんなあ、と。
「あるぞ」 と、そのお客さんが言うんですね。
「わしは、始は無いと思ってたんや」
と、いうのが、親戚に法事があって、その人も招かれていったわけです。
そのときは、神や仏を信じてないわけですから、バカらしいこんなことに金を使って!と。
それでお酒も入って、まわってきたので、諍いになってきたわけです。
神も仏も無いのに、こんなことをして、ということでね。
アホなことを言うな、神も仏も有るんやと。
そんなものは、あるものか、と。
こんな法事なんかしても何もならんぞ、と。
そんなことを言うたら罰が当たるぞ。
罰なんか当たるもんか。
罰が当たらんというなら、仏壇の如来様に、しっこをかけれるか、といったんだそうです。
おお、かけてやるぞ、と言うて、仏壇の如来様を取り出して、庭へ置いておしっこをかけたそうです。
それから、日がたつにしたがって、身体の具合が悪くなってきたんですって。
病院へ行っても治らないし、未だに具合が悪い。
これは罰が当たったに違いないなと、わしは今そう思うてると言うんです。
だから神や仏は有るぞ、と。
そのお客さんが言うた、という話しです。
そりゃ仏様におしっこをかけたら身体の具合も悪くなるでしょうね。
憎んでするんじゃないけど、そういうことをしたらいかんという戒めなんですね。