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和尚さんの法話 「南無阿弥陀仏」

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何でここに即便往生と出てきたかというたら、二種往生といいまして即便往生と当得往生(とうとくおうじょう)ということをいうのですね。

ただ、真言宗では、即得往生ということをいいますが、即便往生と同じことです。
即得往生というのは、この世の往生だと、こういうのです。現世の往生。

一方、当得往生というのは、死後の往生だと。
死んで西方極楽へ往生するという、いわゆる往生、これを当得往生というのですね。
即便往生の「即」とは、「速い」という意味だと。「今直ちに」、「この身このままで」と、こう漢字の意味を取るんです。

一方、当得往生の「当」とは、「まさに」、「やがて」、という意味で、時間的にもうちょっと向こうですね。
だから、死後の往生であると。
しかし、私個人としては、現世の往生ということは、どうしても腑に落ちないのですね。
往生というのは、往(ゆ)いて生まれる、率直に、死んでから極楽へ往って生まれる、これ以外に往生ということはないと、こう思うんです。


では、何でこんなこと分けたのかというたら、今いうこの漢字で以って分けたんですね。
「即」は、ただちに。 
「当」は、やがて、と。
それは漢字でいうたら、やっぱりニュアンスが違ってくるんです。

ところが、お経というのは印度から来たもんで、初めは印度の言葉で書いてあるんです。
これを玄奘三蔵とか偉い翻訳者が漢訳したんでしょ。 
その漢訳するときに、印度の言葉は一つであっても、同じ言葉ばっかり使っては芸がない、と。 
ここではこういう字を使い、ここではこういう字を使うというふうに、ちょっと味を付けてるのに過ぎないと、私は思うんです。

即便と当得の元は一緒だと思います、梵語でたどって行ったら。
この時代の人々は、梵語を知りませんわね。 
江戸時代、その前の鎌倉時代の人々は、皆梵語をいうのは知りませんわ。
中国へ行って知った人があったかどうか分かりませんけど、日本で勉強した人はほとんど知りませんね。
それで、そういう分け方をするわけです。 

もし、現在のように元の原本を知っていたら、こんなことは言わんと思うわけですわ。
ですから、私は、即便往生ということは、実際問題として結局、信心決定のことやと思いますね。


次に、「即便往生の実証は最後十念に顕わる」という言葉が続いているわけですが、私はこの言葉をとても大事にしているんですわ。 
ただ、即便往生ということだけは、ちょっと抵抗があるんですが、これを信心決定と取れば、弘願了解の初一念に信心決定すると言えます。 

ところが、信心決定と自分で思っておっても、あるいは人が認めておっても、その本当のものであるか、どうかということは最後の十念が出るか、出ないかによって分かると、こういうことです。
ですから、本当の信心、本当の阿弥陀様の信心を持ち本願を信じておったならば、臨終の時に必ず念仏が出るはずだということですよね。

それは阿弥陀様が出して下さる、もう認めてくれてるから。
この者は往生さしてやろうと念仏さして下さるわけですわ。
また「若し一日乃至七日」というのも臨終の時です。それから下品下生についても、「念仏するにいとまあらず」とは、これ臨終の時なんです。
その時に十念具足してとなってくる。 
だから、臨終の時に念仏出なければ、だめだと私は理解しています。

ところで、時宗では、平生即臨終、臨終即平生といいますが、それも私流に言わせるならば、皆さん、いつ死ぬか分からんでしょ。
今ここで死ぬかも分からん。 
だから、うちの元祖さんや二祖上人が、今が臨終だ、今が臨終だと、そういう覚悟で絶えず念仏を称えよと、こうおっしゃったんだと思うんです。
我々凡夫には、いつ死ぬということが分からん、仏様じゃないから。

弘法大師は、「本年三月二十一日」と、おっしゃった。
「寅の刻―」、時間まで言ったんですね。

一遍上人は、そこまでおっしゃってないけども、「我が往生近きにあり」と、ちゃんと、おっしゃってんですよ。
ところが、我々は分からない、凡夫ですから。
つまり、いつ死ぬか分からないからということは、今死ぬかも分からんということですよ。
だから、常に臨終の覚悟をせよ。
平生ということはないんだ、皆臨終やと思うてよと、こういうことなんですよ。
それで、念仏を称える。 
そしたら、臨終は向こうから来るんだとね。

念仏の中へ臨終が来るんじゃ、臨終が即ち平生じゃ、平生が臨終じゃ、そういう意味で臨終即平生、平生即臨終という言葉が、時宗にあるんですわ。
それはそれとして、一応心得をして、蓮の台(うてな)に乗せていただいて極楽へ行くんだ、十万億土を過ぎて向こうへ行くんだ、そういう意味での極楽往生だということです。
だから、即便往生ということは、信心決定というふうに取ったらいいのではないかと思うんですね。

さて、何で念仏を称えるのかというのは、こういう意味なんです。とにかく、極楽往生するために念仏称える。だが、その念仏は口だけの空念仏では困るんで、信心のかなった念仏でないと、いかんおですわ。それなら、どこが信心で、どこが不信心となるかというと、それは如来様が決められることですね。

たとえば、卑近な、もったいない例になるけれども、まあ夫婦の愛とか、男女の愛とかいうようなもんで、その人のためなら死んでもかまわん。
この人のためなら一緒に死んでもかまわん、命もいらんというふうな心の通い方がありますね。

信心というのは恋愛じゃないけど、阿弥陀様に対してこと仏様のためなら、おまえ、首をはねるか、信仰を捨てるかと言われたときに、死ねるとうな心境ですな。
それで、死ぬの怖いから捨てますということじゃあ、信仰じゃない。

だから、幕府がキリスト教を弾圧するのに踏み絵をいうのをやりましたね。
本当に信仰を持ってるものは、よう踏まん。 
それで、結局踏まなかった者ははりつけにしたんでしょ、本当のクリスチャンなら変わらんから。
本当の信仰というのは、そういう心境ですわ。 
そういう気持ちで念仏を称える。
気持ちでというよりも、もうそうなってしまうんですよ。
あの人を愛しなさい、死んでもいいというつもりの愛になりなさいというても、なるもんじゃないですよ、そうでしょ。これは、主観的なものだから。
人からいくら言われたって、自分が納得してなることだから。 
まあ恋愛と信仰と違いますけどね。
だから、ああして下さい、こうして下さいというて頼むのは、信仰の一歩手前ですわな。

お地蔵さんなり、仏さん、神さんのお力を信じてるという意味で、神さん仏さんは認めてくれますよ。
だけど、いわゆる極楽往生というような意味の信心というものは、そうじゃなくて、極楽に往生さしていただきたい、阿弥陀様のところへ行きたいという意味ですわ。