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和尚さんの法話 「南無阿弥陀仏」

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それが、迎えに行けんというようなことでは正覚を取らじ―完璧な仏に成らん。できるという確信に立って、始めて正覚を取ると、こういう誓いなんです。
この第十九願が、来迎の願。

真宗のほうでは、来迎というのはお説きにならん。
これは不思議だなと、私は思う。
お経に説いてあるのに何故説かないのかな―いつも思うんですね。

で、この願があるから、必ず阿弥陀さんはお迎えに来て下さるんだということになってる。
また、他のお経の中にも、必ずその前に給うというようなところが出てくる。

たとえば、『阿弥陀経』の中にも、舎利佛、若し善男子善女人有りて、阿弥陀仏を説くを聞きて名号を執持すること若しくは一日、若しくは二日、若しくは三日、若しくは四日、若しくは五日、若しくは六日、若しくは七日、一心不乱なれば其の人命終わるときに臨んで、阿弥陀仏、諸の聖衆とともに現に其の前に在しまさん。
其の人終わる時、心顛倒せず、即ち阿弥陀仏の極楽国に往生することを得ん。
これも来迎ということですね。

しかし、真宗の教学の中には、念仏の衆生は即得往生で、自力の衆生にして極楽往生できる人が、第十九願で来迎を受けるんだという。
これは、私は解せないのですが―。

さて、ここに「一心不乱なれば―」、念仏称えることが一心不乱なれば、「其の人命終わるときに臨んで、阿弥陀仏諸の聖衆とともに、現に其の前に在しまさん」という文句があるんです、現に現れて下さる、と。

だから念仏称えたら必ず極楽往生する時、阿弥陀様がお迎えに来て下さるということですね。
行ったことのない極楽、やっぱりお迎えに来て下さらなければ、とてもじゃないが行けるはずがない。
そこで、私は、何で真宗さんが来迎を否定なさるのかなと思うんです。

大体、お迎えをいうのは、身分の低い者が高い方を迎えるのが本当なんですよ、そうでしょ。
ところが、阿弥陀様が凡夫の我々をお迎えに来て下さる、こんなもったいないことはない。
そりゃあもったいない、私はそう思うんですね。
それが他力の極致だと、そう思うんです。
まあ、こんなふうに四十八願をお立てになって、そこで世自在王如来様に約束するるわけですね。
そして、その後に法蔵菩薩がさらに「我、超地の願を建つ」というこの言葉を述べて誓うんです。


  我、極致の願を建つ。必ず無上道に至らん。
  斯の願満足せずんば、誓って正覚を成せず。

私は、将来、極楽を作って、こういうようにします。
また、こういう条件に合う者を極楽往生させます。
できないようでは正覚を取りません。
そして、これからその誓い通りに私は修行します、というて誓いを建てる。

○「我、極致の願を建つ」、世に比類なき誓願を立つわけです。

○「必ず無上道に至らん」、誓いを立てっぱなしじゃない。
必ず果たすために、自分は正覚を取ります、と。
無上の道に至ります。
仏様になります。

で、もし○「斯の願満足せずんば」、成就できないようなことならば、
○「誓って正覚を成ぜず」、正覚を成じません、仏にまりませんというて念を押すわけですね。

そこで、『無量寿経』の中のまた別のところでは、阿難がお釈迦様のお説法を聞いて、その法蔵比丘という方は、菩薩の時にそういうお誓いを立てられたが、現在はすでにもう成仏なさったんですか― 正覚を取られたのですか、まだ成仏してなさらんのですかと、こういう質をされたのですね。

  阿難、仏にも臼さく、法蔵菩薩、すでに成仏して滅度を取り給いきとやせん、未だ成仏し給わずとやせん。

  仏、阿難に告げ給わく、法蔵菩薩、今すでに成仏して、現に西方に在しませり。

  此を去ること十万億刹なり。

  其の仏の世界を名付けて安楽という。

  阿難また問いてたてまつる。

  其の仏、成道より此の方いくばくの時をへ給えりや。

  仏曰く、成仏よりこのかた凡そ十劫を歴たり。

ここに滅度をいう言葉が出てくるのですが、この滅度ということは、本来、涅槃に入ることなんです。
涅槃に入るというのは、絶対境に入る。
極楽なら、もう極楽を閉めてしもうて、これで終わり。
衆生の済度すべき者は全部済度した、自分の仕事は終わった。
救った者は、皆それぞれ如来様になっていると。
つまり、如来様が自分の仕事は終ったというときに涅槃に入られるということなんです。

しかしながら、実際は涅槃に入らずに、また別の姿になって衆生を済度するということですね。
たとえば、お不動さんは、元、○○如来様であったというんです。
そのお仕事が終わったので、今は不動となって、そういう姿でまた別の新たに仕事をなさっている。
皆それぞれ、そうなっていると、こういう。

で、お経の本文ですが、阿難の質問というのは、法蔵比丘はもう仏となって、そして涅槃に帰られたのですか、まだ成仏していらっしゃらんのですか、あるいはまだ涅槃に入らずに―滅度を取らずに現にいらっしゃるんですかと、こういう三つの質問ですな。

これに対するお釈迦様のお答えは、法蔵比丘は今現にいらっしゃる、まだ滅度しておられない。
で、成仏しておられるのかというと、もう成仏しておられる、「此を去ること十万億刹なり」と。

「十万億刹」というのは、どういうことかというと、この「刹(せつ)」というのは、これは浄土のことをいうんです。ここから西方に向かって極楽に到達するまでに、仏様の浄土が十万億あるということです。

「此れより西方十万億仏土を過ぎて世界あり。弥陀といえるは教主なり。今現在にのりをとく(『小経讃』)」
時宗の方に、こういう和讃があるんですね。

「安楽」というのは、極楽の別の名前。
成道してから今日まで、それくらいの日数がたっておるんですかというと、今から「十劫」以前にすでに成仏なさっている。
だから、完璧に自分の四十八願は成立せしめる。

欠けることはない、空証文に終わることはないという確信をお持ちになって、今から十劫以前にもう極楽浄土をお作りになっている、こういうことなんです。
だから、その四十八願通りに行けば皆往生できるということですね。


そこで、お念仏ですが、どうして南無阿弥陀仏と称えるかというと、「至心に信楽して、我が国に生ぜんと欲して乃至十念せんに、若し生ぜずんば正覚を取らじ」ということで、これは一念の裏付けあるんだから、たとえ一念でも称えれば必ず極楽往生できる、三界は輪廻することはない、解脱できるんだというこれを信じるわけです。
頭でだけじゃいけませんのやね、それに対して行じなければいけません。


弘願了解の初一念に即便往生し、即便往生の実証は最後十念に顕わる。(『器朴論』)

この弘願(ぐがん)というのは、「至心に信楽して我が国に生ぜんと欲し乃至十念せんに、若し生ぜずんば正覚を取らじ」という第十八願のことで、本願という意味です。

そして、「了解(りょうげ)」、つまり、この本願を信じきる。
私は、この即便往生(そくべんおうじょう)という言葉の代わりに、信心決定という言葉を置き換えたらええんじゃないかと思うんです― 弘願了解の初一念に信心決定す、と。

そして、往生さしてもらう、こういう意味です。