和尚さんの法話 「南無阿弥陀仏」
和尚さんが、あるお家でご法事のあとで、いろんな話が出てくるそうですがそのときいらっしゃったお若い方が、南無阿弥陀仏とは一体どういうことですか、何で南無阿弥陀仏と称えるんですかと、こう聞かれたそうです。
もう、そんなことは分かってるつもりで―、ところが、そのお若い方にしてみたら、話を聞かなきゃ分からないので―。
だから、皆分かってるつもりでお話したところが、やっぱりご存じない方がいくらもあるわけなんですね。
特に、お若い方はそういうことです。
そういう同じ疑問をお持ちの方もいらっしゃるかもしれませんので、充分お分かりになってる方ももちろんいらっしゃるでしょうけれども、お話をしたいと思います。
和尚さんが本山で、修行と言えばおこがましいですけれども、僧侶の資格を取るためには、どうしても本山へ行かなきゃならん。
そういうときに、本山で学校というのがありまして、そこで勉強をします。
一番最初は、やっぱり私たちの宗門としては南無阿弥陀仏ということから始め、「南無とは帰命なり。
阿弥陀仏とは仏の御名なり」と教わりました。
これは、伝統的な説明の仕方なんですね。
この「南無」というのは、これは印度の言葉ですね。
ナァーモ(namo)という印度の言葉です。
それに、こういう漢字の当て字を使っているわけです。
南が無いという意味じゃない、音だけ写したんです。
で、そのナァーモという意味、それが帰命、あるいは帰依という意味で、信心の主体なんです。
キリスト教では、竟衣というような言葉が使われているんじゃないですか、信仰というものを絶対竟衣の感情というように。
で、帰命というのは命を帰すという、つまり、命を捧げるという意味ですね、仏様に、阿弥陀様に。ところが、『観無量寿経』の中に、
仏、阿難及び違提希に告げたまわく。
下品下生の者とは、あるいは衆生ありて不善の業たる五逆十悪を作りて諸の不善を具す。
是の如き愚人、悪業を以っての故に、まさに悪道に堕して多劫を経歴して苦を受くること窮(きわ)まりなかるべし。
是の如き愚人、命終の時に臨んで、善智識の種々に安慰して為に妙法を説きて教えて念仏せしむるに遭えり。
此の人、苦にせめられて念仏するにいとまあらず。
善友告げて曰く、汝、もし念ずること能わずば、まさに無量寿仏と称すべしと。
是の如く至心に声をして絶えざらしめ十念を具足して南無阿弥陀仏と称す。
仏名を称するが故に念々の中に於いて八十億劫の生死の罪を除く。
命終の時、金蓮華の猶し日輪の如くなるが其の人の前に往せるを見る。
一念の頃の如きに即ち極楽世界に往生することを得。
『大無量寿経』では、五逆は除くとおっしゃってるけど、ここでは「五逆十悪を作りて不善を具す」とあり、それ以上いろんな、もうありとあらゆる罪を積んだ者、本来ならば、多劫に渡って責めを受けるべきい愚か人でも、たまたま仏縁があって、まあ、和尚さんがいらっしゃって、今これから死んで逝くというその人に説法するんですね。
ここの最初の「念仏」というのは、心に仏様のご相好を浮かべなさいと、こう教えるんです。
心の中に仏様のご相好を描くということだけでも、大きな功徳になるんですよ。だから、皆さんがお家へ帰って、お地蔵さん、仏さん、また、どこどこのお不動さんと、こう心を込めて浮かべる。
それがそのまま功徳になる。
それをしなさいと、こういった。
それによって罪が消えて行くわけですね。
ところが、苦しいんで精神統一できない。
業の深さで七転八倒するというような病気になる。
そこで、善友、つまり善智識が告げて言うわくには、「汝、もし念ずること能わずば、まさに無量寿仏と称すべし」と。
無量寿仏というのは、阿弥陀仏の別名ですね。大体、阿弥陀とは、無量寿という意味が一つにはあるんです。
だから、南無阿弥陀仏と称えなさいというたんです、言い替えたらね。
それで、この五逆十悪の罪人が、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、十遍称えた。
で、八十億劫の間生まれ変わり死に変わり、こう繰り返してきたその間に積んだ罪、それがこの念仏の内に消えて行くというのです。
そして、蓮の華がお迎えに来て下さる。
上品上生のところでは、阿弥陀様から観音、勢至、二十五菩薩から諸々のご眷族がそのままお迎えに来て下さると説いてある。ところが、この下品下生になってきましたら、蓮の華が迎えに来て下さる。
そういう差がある。しかし、仏教は平等を違いますからというちゃあ、もったいない。
これは、我々にそれだけの差があるんですから。
とにかく、これで極楽往生さしていただけるんですね。
ここにある「猶し、日輪の如し」とは、もう大きな金の蓮が、ぱあっと現れる。
そして、ほんの一瞬、パチンと指を弾く位の間に、気付いたらもう極楽往生しているというのですね。
これが下品下生です。
だから、ご逆と正法を誹謗するのをば除くというのは、親が子供に、おまえ、ようしとかんと土産持って帰って来んぞというのと同じことで、実際はたとえ暴れておっても、今度からは気を付けよというて、持って帰ってきた土産をやるという真理です。
あんまり甘やかしたらいかんと、やっぱり親は、そう思うて子供を教育するのと同じことで、仏様にもやっぱりあんまり甘やかしてしもうたらと思う方もいらっしゃる。
仏様のお説法に食い違いが何故あるのかというたら、そういう意味ですね。
そこで、もう一つ、十念か一念かという問題になってくるわけです。
諸の衆生有りて、其の名号を聞きて信心歓喜して乃至一念せん。
至心に廻向して彼の国に生ぜんと願ぜんに即ち往生を得て不退転に住せん。
これは、『大無量寿経』の中の文句ですが、ここに一念と出てくるわけです。
ただ、弥陀の本願は十念と、こう出てくる。さっきの下品下生のとこでも十念となってますが、ここでは「乃至一念」となってる。
これも片一方は阿弥陀様。お釈迦様も十念と『観経』の中でおっしゃってますが、ここでは一念と言われてる。
で、十念が本当か、一念が本当かというたら、これも簡単な方を取らしていただいて、一念の方を取ったらいいんですわ。
十念は、よけときなさいというんではないんですよ。ですけども、どっちか一つと、こうなったら一念の方が楽ですから―。
ただ教学的には、一念称えて後の二念、三念が続かん内に息を引き取ったら往生できるか、できないかという問題が絡んでくるんですよ。
ところが、一念という言葉が、お経の中へ出てくるんですから、たとえ一念でも往生できるということです、十念称えなくても。
そういうふうに、如来様のおっしゃる言葉の食い違いのあった場合は楽なほうを我々は取らしていただいたら、ええということですね。
さて、この十九番目に
設し、仏を得たらんに、十方の衆生菩提心を発し、諸の功徳を修し、至心に発願して、我が国に生ぜんと欲せんに、寿終わる時に臨んで、もし大衆の為に囲鐃(いにょう)せられて、其の人のに前現ぜずんば正覚を取らじ。 (第十九願)
極楽に往生さしていただきたいと希望する人がおって、今まさに死ぬという時に、阿弥陀さんが大勢の眷族を連れて迎えに行く、と。
もう、そんなことは分かってるつもりで―、ところが、そのお若い方にしてみたら、話を聞かなきゃ分からないので―。
だから、皆分かってるつもりでお話したところが、やっぱりご存じない方がいくらもあるわけなんですね。
特に、お若い方はそういうことです。
そういう同じ疑問をお持ちの方もいらっしゃるかもしれませんので、充分お分かりになってる方ももちろんいらっしゃるでしょうけれども、お話をしたいと思います。
和尚さんが本山で、修行と言えばおこがましいですけれども、僧侶の資格を取るためには、どうしても本山へ行かなきゃならん。
そういうときに、本山で学校というのがありまして、そこで勉強をします。
一番最初は、やっぱり私たちの宗門としては南無阿弥陀仏ということから始め、「南無とは帰命なり。
阿弥陀仏とは仏の御名なり」と教わりました。
これは、伝統的な説明の仕方なんですね。
この「南無」というのは、これは印度の言葉ですね。
ナァーモ(namo)という印度の言葉です。
それに、こういう漢字の当て字を使っているわけです。
南が無いという意味じゃない、音だけ写したんです。
で、そのナァーモという意味、それが帰命、あるいは帰依という意味で、信心の主体なんです。
キリスト教では、竟衣というような言葉が使われているんじゃないですか、信仰というものを絶対竟衣の感情というように。
で、帰命というのは命を帰すという、つまり、命を捧げるという意味ですね、仏様に、阿弥陀様に。ところが、『観無量寿経』の中に、
仏、阿難及び違提希に告げたまわく。
下品下生の者とは、あるいは衆生ありて不善の業たる五逆十悪を作りて諸の不善を具す。
是の如き愚人、悪業を以っての故に、まさに悪道に堕して多劫を経歴して苦を受くること窮(きわ)まりなかるべし。
是の如き愚人、命終の時に臨んで、善智識の種々に安慰して為に妙法を説きて教えて念仏せしむるに遭えり。
此の人、苦にせめられて念仏するにいとまあらず。
善友告げて曰く、汝、もし念ずること能わずば、まさに無量寿仏と称すべしと。
是の如く至心に声をして絶えざらしめ十念を具足して南無阿弥陀仏と称す。
仏名を称するが故に念々の中に於いて八十億劫の生死の罪を除く。
命終の時、金蓮華の猶し日輪の如くなるが其の人の前に往せるを見る。
一念の頃の如きに即ち極楽世界に往生することを得。
『大無量寿経』では、五逆は除くとおっしゃってるけど、ここでは「五逆十悪を作りて不善を具す」とあり、それ以上いろんな、もうありとあらゆる罪を積んだ者、本来ならば、多劫に渡って責めを受けるべきい愚か人でも、たまたま仏縁があって、まあ、和尚さんがいらっしゃって、今これから死んで逝くというその人に説法するんですね。
ここの最初の「念仏」というのは、心に仏様のご相好を浮かべなさいと、こう教えるんです。
心の中に仏様のご相好を描くということだけでも、大きな功徳になるんですよ。だから、皆さんがお家へ帰って、お地蔵さん、仏さん、また、どこどこのお不動さんと、こう心を込めて浮かべる。
それがそのまま功徳になる。
それをしなさいと、こういった。
それによって罪が消えて行くわけですね。
ところが、苦しいんで精神統一できない。
業の深さで七転八倒するというような病気になる。
そこで、善友、つまり善智識が告げて言うわくには、「汝、もし念ずること能わずば、まさに無量寿仏と称すべし」と。
無量寿仏というのは、阿弥陀仏の別名ですね。大体、阿弥陀とは、無量寿という意味が一つにはあるんです。
だから、南無阿弥陀仏と称えなさいというたんです、言い替えたらね。
それで、この五逆十悪の罪人が、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、十遍称えた。
で、八十億劫の間生まれ変わり死に変わり、こう繰り返してきたその間に積んだ罪、それがこの念仏の内に消えて行くというのです。
そして、蓮の華がお迎えに来て下さる。
上品上生のところでは、阿弥陀様から観音、勢至、二十五菩薩から諸々のご眷族がそのままお迎えに来て下さると説いてある。ところが、この下品下生になってきましたら、蓮の華が迎えに来て下さる。
そういう差がある。しかし、仏教は平等を違いますからというちゃあ、もったいない。
これは、我々にそれだけの差があるんですから。
とにかく、これで極楽往生さしていただけるんですね。
ここにある「猶し、日輪の如し」とは、もう大きな金の蓮が、ぱあっと現れる。
そして、ほんの一瞬、パチンと指を弾く位の間に、気付いたらもう極楽往生しているというのですね。
これが下品下生です。
だから、ご逆と正法を誹謗するのをば除くというのは、親が子供に、おまえ、ようしとかんと土産持って帰って来んぞというのと同じことで、実際はたとえ暴れておっても、今度からは気を付けよというて、持って帰ってきた土産をやるという真理です。
あんまり甘やかしたらいかんと、やっぱり親は、そう思うて子供を教育するのと同じことで、仏様にもやっぱりあんまり甘やかしてしもうたらと思う方もいらっしゃる。
仏様のお説法に食い違いが何故あるのかというたら、そういう意味ですね。
そこで、もう一つ、十念か一念かという問題になってくるわけです。
諸の衆生有りて、其の名号を聞きて信心歓喜して乃至一念せん。
至心に廻向して彼の国に生ぜんと願ぜんに即ち往生を得て不退転に住せん。
これは、『大無量寿経』の中の文句ですが、ここに一念と出てくるわけです。
ただ、弥陀の本願は十念と、こう出てくる。さっきの下品下生のとこでも十念となってますが、ここでは「乃至一念」となってる。
これも片一方は阿弥陀様。お釈迦様も十念と『観経』の中でおっしゃってますが、ここでは一念と言われてる。
で、十念が本当か、一念が本当かというたら、これも簡単な方を取らしていただいて、一念の方を取ったらいいんですわ。
十念は、よけときなさいというんではないんですよ。ですけども、どっちか一つと、こうなったら一念の方が楽ですから―。
ただ教学的には、一念称えて後の二念、三念が続かん内に息を引き取ったら往生できるか、できないかという問題が絡んでくるんですよ。
ところが、一念という言葉が、お経の中へ出てくるんですから、たとえ一念でも往生できるということです、十念称えなくても。
そういうふうに、如来様のおっしゃる言葉の食い違いのあった場合は楽なほうを我々は取らしていただいたら、ええということですね。
さて、この十九番目に
設し、仏を得たらんに、十方の衆生菩提心を発し、諸の功徳を修し、至心に発願して、我が国に生ぜんと欲せんに、寿終わる時に臨んで、もし大衆の為に囲鐃(いにょう)せられて、其の人のに前現ぜずんば正覚を取らじ。 (第十九願)
極楽に往生さしていただきたいと希望する人がおって、今まさに死ぬという時に、阿弥陀さんが大勢の眷族を連れて迎えに行く、と。
作品名:和尚さんの法話 「南無阿弥陀仏」 作家名:みわ