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和尚さんの法話 「阿弥陀経」 2

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私は主人にはとても付いて行けませんというのは
難行苦行の付いていけないというのとは 違うんですよね
主人はもう絶えずお念仏を唱えておったというのです
いつ見てもお念仏なんです
おまえもちっと、念仏を唱えないと極楽へ往生できないぞと!
言われるんですが
言われたときは念仏を唱えるのですが
本当の信仰が無いからすぐに忘れてしまうんですね
ところが主人はいつでも、いつ見ても念仏を唱えてる
よくあれだけ念仏が出たものだと感心するというのですね
とても私には付いていけないと、そういうのですね
だから阿弥陀様の心に叶ってるんですね
この者は極楽へ往生と、認めてらっしゃるんですね


もうひとつは 向かいのお寺ですが、そこの寺の前の御老僧は極楽へ往生なさったと思うのです
今の和尚様のお寺は親戚の寺だそうでして、前の住職が亡くなり、その子供も亡くなって奥さんだけになってしまったので呼ばれて来たそうです
それで来てすぐに向かいの寺の住職が亡くなったのでお参りに行くようにと奥さんに頼まれて行ったんですが、この寺の住職が亡くなったときに向かいの寺の住職にお参りに来てもらったそうですから、ですからその拝みに来てもらった返礼という意味で行くことになったそうですが、来て間もないし、会ったこともないですが、拝みに来てくれませんかと、言われたので行ったそうです

和尚さんが行くとお経を読まないとならんですから
葬式の前にちょっと時間をとってもらって
祭壇の前で拝んでたら阿弥陀様がすーっと、お立ちになったんです
これはこの方は極楽往生なさった方なんだと思って帰ってきてお婆さんに聞いてみたんですが、お婆さんは知らないんですね
その人のことを誰か知ってる人は居ないかと思って随分日にちがたって 、そしてある人に知り合いになって 聞いてもらったそうです
あーなるほどそういう方だなと、思ったんです

ある時に寺が火事になって 
仏様を焼いてしまうということになったんですね
消防が間に合わんと思ったそうなんですね 其の時に
ところが間に合ったんです
消防が来て間に合ったんです
消防さんが来たら 住職が阿弥陀様に抱きついてたそうです
申し訳ない、このまま私も一緒に死ぬと言うてね

其の話を聞いて、なるほどなと!思いました
仏様というのは木造ですよ
焼けたらまた新しい仏像を買ってくればいいわけですよね
ですが、その人にとっては仏像は木造とは思ってないんです
仏様、生き仏様なんですね
この仏様を死なせたら自分も生きて居れないと一緒に死ぬという心境なんですね
だからそれを聞いて なるほどなーと思ったのです
自分がそんな真似が出来るかなーと、反省しましたそうです
だから本当の信仰というものはね、命もいらないという、信仰のためにはね。同じような話がキリストにもありますよね

踏み絵
キリストの絵を踏んで通りなさいと昔、幕府が踏ませたんでしょ
本当の信仰を持ってたら踏めないんですよね
自分が信仰してる神様をとてもじゃないが踏んで通るなんていうのはね。
ところが踏んで通らないと これはクリスチャンだということで死刑になったんでしょ
命助かりたい人はこの絵を踏まなかったんですよね、これは本当の信仰じゃないと、いうことで助かったんですね
ここで踏まないと自分は殺されると、貼り付けになると判ってて踏まなかった人が何人か居って貼り付けになったんですが、それが本当の信仰だと思うのです
だから信仰のために命も要らんと、仏様に命を捧げるという気持ちだと思うのですね

そしたら仏様は可愛いやつじゃ愛いやつじゃと思ってくれますでしょ
そしたら自分の所へ連れて行ってくれますよね、信仰というと遠いような感じを受けますが
例えばですが、男女が恋愛して この人のためなら死んでもいいと、そういう気持ちになると人間の恋愛というとどろどろとした感じがしますが、信仰は仏様のためには死んでもいいということですのでまた違いますよね

崇高なんですよね。そういう崇高な気持ちで仏様に接すると
万が一仏様が亡くなるというときに焼け死んでもいいという気持ちになる、そういう気持ちなんですね
自分で真似が出来るかなと、いつも反省してるんです
そういうふうな信仰を持てるためには阿弥陀様が実在する、お地蔵様が実在すると思わなければね
仏様があるのかな? ないのかな?と、そんな気持ちでは人気様のために命は要りませんと、そんな気持ちになれませんね
皆さんがこの目の前に見えてるのと同じように仏様も眼には見えないけど絶えず向こうからは見ていて下さってるのだからと、そういう気持ちが十二分にもないとね
其の上に信仰というのはあるんだからと、思います
そしたら仏様はわしのために そこまで思うのか、可愛いやつじゃと、死んだら極楽へ引き取ってくれると、そういうことになるんですね
判りやすく説明すると信仰はそういうもんだと思うのです
如来様が存在するんだ、菩薩様が存在するんだ、神様が存在すると、眼には見えないけど存在するんだと十二分に信じてないと信仰は始まらないですね、一所懸命に心を向けていくと見せてくれるんですよ

信仰してると必ず夢をいうのを見ます
夢の状態を見てたら自分の信仰はどの編まで来てると、何処まで認めてくれてるんだなと、大体わかるんです夢によってね
自分の信仰する仏様だけが信仰するけど他の神様仏様は信じないというのはちょっと心が浅いのであって、自分が何もかも捧げていくという仏様を決めてあって、例えばお地蔵様を信仰してるとすると、他の仏様は拝まなくてもいいのかと、いうんじゃないんです
阿弥陀様も拝むしお地蔵様も拝む観音様もね、弘法大師も尊敬するし法然上人も尊敬意するがいざ、仏様はと!
なると、お地蔵様とこうきます、そういうもんじゃないと いかんと思うのですね
宗派によっては、これは拝むけど他は拝まないというのはおかしいのであって、仏教というのは、ひとつの大きな世帯なんですよ

他の宗派も皆ひとつの世帯なんですよね
我々はひとつの仏様と決めて お地蔵様とか、観音様と決めてますが、向こうからすれば あれは観音を信仰してるんだから 
わしには関係ないと、仏様はほっとかないですよ
あれは観音を信仰してるからと言うて、他の仏様が手伝いに行くんですよ
お地蔵様のお手伝い、観音様のお手伝いと、いうふうになってるんですよ仏様方はね。
しかしながら自分はたくさんの仏様の中から、どの仏様に救われましょうかと、いうのを決めておかないといかんというのですね

阿弥陀様なら阿弥陀様にどうぞ往生させてくれますようにと、そしたら阿弥陀様がお迎えに来てくれるんです
それを決めないといかんのです
お一人をね、決めないといかんと思うのです
それはちょうど命を懸けた恋みたいなもんですわね
あの人のためになら命も惜しいことはないという人がたくさん居るんじゃないかと思うのですがね
それと一緒ですね、自分がどの方に救われようかと、いったらこの方にと一人決まらんといかんと、思うのです

あるお母さんがお子さんを亡くされましてね、産まれて間もない子供さんですが、そのお母さんが泣いてるんですね。
和尚様はお母さんに、霊魂は存在するんだから