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和尚さんの法話 「阿弥陀経」 2

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信じるというのは少しだけ疑いが含まれてるから、ここに机がある、たぶんあるだろうと そんな目の前にあるのにそんな言い方はしないですよね、机があることは認めますね、それと同じなんです。極楽もたぶんあるだろじゃなくって、あると認めることが大切なんですね。だから極楽があるんだと信じるんじゃ具合が悪いんです。

これから家に帰るんだと、同じように死んだら本当に念仏を唱えてたら極楽へ行けるんだと、極楽があるのは何の疑いも無いあると、認めるということです。
だから普通、信じるという言葉は少しの疑いを信じてるんですね。

明日は天気は晴れるだろうか、予報では晴れると言うてるけど明日になってみないと判らない、だからたぶん晴れるだろうと信じるんですが、少しだけ疑いが残ってますね日常の信じるという言葉の使い方は信仰の信じるというのは違うんですね、とにかく仏様のために命も投げ出すという気持ちが信仰なんです。

仏教でいう信じるというのはそれなんです。だからちょっと違うんです。
だから極楽があるとか、ないとか論議じゃないんです。
あるんです。あるのに決まってるんです。あると決まってるけど
でも、いざ信仰というと我々の眼で見た信仰と仏様の眼で見た信仰には なかなかなれないもんなんですね。

先にもお話しましたが 和尚様のお爺様はね、とにかく平素から念仏を唱えてたそうです。そして病気になって、おトイレに立ったときにふらふらーとなって、ここでもう死ぬんだと思って、念仏!という気持ちになって念仏を唱えたといいます。

死ぬときに念仏を唱えないといかんと信じてますからね、だけど平素は死ぬ時に念仏を唱えたらいいんだと判断できてもいざ、死ぬというときに信仰が無かったら其の時に出ないんです。

ところが祖父は平素から信仰を持ってますからそこから信心はけつじょうしてたと思いますね。
だからもうふらふらーとなったのでもう今、死ぬんだという気持ちになって念仏ーという気持ちになって唱えたといいますで、仮死状態になって其の中で霊魂が一所懸命に念仏を唱えてたそうです。
極楽へ往生出来るのだったら阿弥陀様がお見えになると、迎えに来てくれると思うてたのに誰も来ないから自分は極楽へ往生出来ないのかなーと思ったそうで、其の時に一心不乱ということがすーっと頭の中に浮かんだといいます。

これは仏様がそうさせて下さったのじゃないかと、そう思います。
尚も、一心不乱に念仏を唱えてたといいます。
そしたら黒い衣を着た坊さんが現れて、あなたは必ず極楽へ往生出来ますが、まだ寿命が残ってます。
本当に亡くなるときには阿弥陀様は必ずお迎えに来ますからと、私は其の時にお供して参りますと。
阿弥陀様のお供をして参るというのだから極楽に往生してる人ですね。
貴方はどなた様ですか?
と聞いたら遊行の七代目だということでした。

この話を意識が戻ったお爺様から和尚様が聞いたということです。

極楽へ往生する人は死後硬直が無いそうです。
ですから和尚様のお爺様は極楽へ往生したなと、思うのだそうです。
これも何度も書きますが若しくは一日、若しくは二日、若しくは三日と、続きますが、これはこれから死んで行くというときを言うんですね。
臨終、これから終わる。
臨終というのは今死にましたというときにご臨終ですと医者は言うけど臨終というのは 今終わりに臨むというのであってまだ終わってないんです。
終わりに近付いて行くということなんですよ仏教で言う臨終はね、其の間に唱える念仏が大事なんです。
其の間にうっかりすると転倒錯乱失念というのが来るんですね。
だから例えば呆けるとか、いうふうになると自分では健康な意識が無くなるからお念仏も出ないですね。
だから極楽へ往生も出来ないですね。
だから転倒錯乱失念と、そういうことが起こらないように、平素と同じような健康な心理状態で臨終を迎えるということでないと、お念仏が出ないんですね。
だからお爺様は あーここで死ぬんだなーと思って、お念仏を唱えたんだからこれは正念というんですね。正念、正しい念。
だからその正念というのは、この者は平素から信仰をしていて間違いないと、これはもう極楽往生できる資格のある者だと、お認めになったということですね。
向こうからそうして下さるんですね正念に。
だから認めてもらわないといけませんね。

仏様に自分の信仰が正しいか 正しくないかということを信仰して、その信仰の状態を自分の信仰はどの編まで来てるかということは夢でだいたい見当が付くんです。
信仰をしてると信仰に関する夢を見ますからね。
その夢の状態によって自分の信仰がどの編まで来てるのかと、仏様は自分の信仰をどの編まで認めて下さってるのかというのは判るはずです。
それによって励むとかいうふうにすればいいと思うのです。
必ず夢は見ますよ信仰してるとね、信仰しなくても夢は見ますけど、ここで言う夢は信仰に関する夢です。

そういうことでお爺様はそれから一ヶ月ぐらい生きてて死んだそうです。
平素唱えていても臨終のときに出ないとだめなんで。臨終正念という言葉がありましてね、正念というのは 和尚様がお話していることも正念だし皆が聞いてるのも正念なんです。健康な普通の心理状態を正念というのですね。

転倒錯乱失念してきたらそれは正念じゃないんです。
だからお爺様は正念だったから 今死ぬんだなーと判断が出来たんですね
正念場というのは臨終のときです。
今これから死んで行くときに正念だったら大丈夫なんです。
一番大事なときに正念場と言いますね一般的には。
一番大事なときというのは臨終のときなんですよ。

善導大師は命終の時に臨んで心転倒せず心錯乱せず心失念せずと祈ってますね。
お経に書いてありますね。
正念というのは自分では大丈夫と思っても仏様に認めてもらわんと、そうならんのですね。

和尚様のお寺では毎日のようにご祈祷がありまして
大勢の人のご祈祷をしてきてるんですが
ある時に、ある家庭の方の病気の方のご祈祷をしてたそうです

寺にはお地蔵様のお厨子があって
その前に阿弥陀様と善導大師と法然上人がお立ちになって
それでこのお家の宗派は浄土宗だなと、思ったのです
ところが浄土宗の人は毎日来てると思うのですよ
毎日大勢のいろんな宗派の人がお参りに来ますから
浄土宗の人は後にも先にもその人一人というわけじゃないんです
なのに同じ浄土宗の人も来てると思うのに こんなことはないんですね
今日に限ってこういうことがあるというのは
そこのお家の誰かが極楽往生するほどの信心を
持ってた人が居るに違いないと思ったのです
そしてご祈祷を済まして、ちょっとお伺いしますけどお宅は何宗ですか?と
そしたら浄土宗ですと
お宅に浄土宗の信心を深くした人がございますか?
即座に、あーそれは うちの主人でございます
私にはとても付いて行けません!と、即座に返事が返ってきました
お念仏の宗派には難行苦行がいりませんでしょ
比叡山のような上がったり降りたりして難行苦行はね
それは出来ないと、法然上人はすぐにそう悟ったんですよね
念仏で救われるのであれば念仏で行こうと、こうなったわけですよね
だから難行苦行が無いのに