和尚さんの法話 「阿弥陀経」 2
それがたとえ十遍でも、一遍でも極楽へ往生を願って南無阿弥陀仏と唱えたら往生させてやると。阿弥陀様がおっしゃってるんです。
その願にすがって救うてもらおうというのが浄土門の立場なんです。
自分は将来こういう誓願をたててこう成りましょうと阿弥陀様が四十八願をたてて如来に成られたように、我々もまた誓願とたてて将来は仏に成りましょうと誓願をたてると、誓願無きは菩薩の恥なりという言葉があるそうです。
仏道を願うなら誓願を持たないといかんと、自分はこうだとね。
お地蔵様は一切衆生を全部救わなければ私は仏になりませんと、こういう誓願をおたてになってるんです。
一切衆生を全部、仏にしてしまわないと自分は仏にならないと、全部仏になって誰も修行をする者が無くなってしまったら最後に私は仏になりますと、お地蔵様はそういう誓願を持ってるんです。
菩薩の方々は皆そういう願があるんですね。
お薬師さんには、お薬師さんの願があるし、お釈迦様には、お釈迦様の願があるんですね。ですから皆さんも自分もなにか願をたてて修行をなさったらいいですね。
そしたら仏様も誉めてくれると思いますよ。愛いやつじゃというてね、仏様方も感心してね、誉めて下さると思います。
「舎利仏我今諸仏の不可思議功徳を称賛するがごとく彼の諸仏等もまた我が不可思議功徳を稱説して是の言を作したまわく」
お釈迦様もですね 十方の仏様がお釈迦様を誉めてるということです。
この娑婆の難しい人間の世界に生まれてきて 難行苦行をして、そして衆生再度をなさってると、十方の諸仏がお釈迦様のことをちゃんと認めてるというのですね。
「釈迦牟尼佛よく甚難稀有の事を為してよく娑婆国土の五濁悪世の劫濁見濁煩悩濁衆生濁命濁の中において阿耨多羅三藐三菩提を得て諸々の衆生の為に是の一切世間難信の法を説く」
と、非情に難しいことを為してという意味ですね
五濁悪世というのは五つの濁りということで、濁りとは劣ってるということです。
そしてその下の劫濁は時間が短いということなんですが
56億7千万年後になったら弥勒菩薩という方がこの世に出て来られますが、この弥勒菩薩がこの世に出てくる頃の人間の寿命は8万歳だとお経に書いてます。
女性が結婚する適齢期が3千歳で結婚するとあります。
そういう時代もあるということなんです。ところが今は百歳でしょ。
一番下に命濁とありますね命の濁り。
濁りとは劣ってるということなんです
その劫濁は時間が短いということなんですが、今は一日の時間が短いですよね、将来は長くなりますけども見濁というのは考え方が間違ってるということ。
見とは見解です、それが間違ってるというのです。
煩悩濁は煩悩が非情に強いということですね。衆生濁は同じですが 人間の出来が悪いということです。
それから命が短い命濁ですね。
これを五濁というのです。
この末法は五濁悪世というのですね。
そういう世界にお釈迦様が生まれてきて阿耨多羅三藐三菩提を得て仏に成られて諸々の衆生の為に一切世間難信の法を説くとありますが、難信、信じ難いというのは 難しいという意味じゃないんです。ほんまかいなと、いう気持ち。
みんな難行苦行してるんですよね。
比叡山に行って千日苦行して上がったり降りたりして自分で身を持って悟っていくんですね、それが本当の修行ですが、ところが我々の立場はは南無阿弥陀仏によって極楽へ往生させて戴いて極楽で修行をさせて戴く立場ですよね、その極楽へ往生するのに南無阿弥陀仏と唱えるべしと、たとえ一遍でも十遍でも唱えると極楽へ救われると、ほんまかいなぁという信じ難いほんまかいなぁというんですね。
たった一遍でも 十篇でも極楽へ救われるというのですから、極楽へ往生するということは救われたということですからね。そして極楽へ行って修行をするというのですからそんなことで救われるのかいなぁと、いう信じ難いという気持ちが起こるということなんですね。難しいという意味じゃないんです。
それを難信の法というのです」
「舎利仏まさに知るべし我れ五濁悪世においてこの難事を行じて阿耨多羅三藐三菩提を得て一切世間の為にこの難信の法を説く是を甚難とす」
甚だ難しいと、難しいんじゃなくて信じ難いと。
「仏この経を説きおわりたまうに舎利仏および諸々の比丘一切世間天人阿修羅等仏の所説を聞きたてまつりて歓喜して禮を作して去りき」
ここでこの阿弥陀経は終わります
結局は阿弥陀経は念仏で救われるぞと、いうことなんですよね
その念仏なんですけど、たとえ 一遍でも十遍でもいいというんですけど、平素じゃないんですよね。
今、この元気なときに一所懸命唱えると、そしてあと、病気になったら唱えないと、いうようなことじゃないんです。
とにかく今これから死んで行くときに十遍、場合によっては一遍でもいいと、念仏が出たら極楽へ往生させてやるぞと、こうおっしゃってるんですよね。
平素、元気なときに十遍ないし、一遍じゃないんです。
唱えないより唱えるほうがいいんですが、いいですけども極楽往生の条件にはならんと。
それは臨終のときの念仏なんです。
これから死んで行くというときです。
だけど平素念仏を唱えていないと臨終のときに念仏が出てこないでしょう。
平素は唱えないで臨終のときだけ念仏を唱えればいいというようなもんじゃーないんですよね。出ないですね。
平素唱えていても臨終というときに念仏というのは出ないですよ。本当の信仰を平素持っていないと出ないですね。
和尚さんのお父様は平素念仏を唱えていたそうです。
何かあったら南無阿弥陀仏と。風呂に入ったら南無阿弥陀仏と。
ありがたいなぁーと思って唱えてたんでしょうね。寒い夜家に帰ってきて 昔ですから火鉢だけでしょ、その火鉢にあたって、あー南無阿弥陀仏と。和尚さんは子供の頃にそれを見て感心してたそうです。
ところが、病気になってしまうと全くお念仏が出なくなってしまったそうです。
あれだけ唱えてたのに念仏が出ないんです。
それでお父様に聞いてみたそうです。
お父さん貴方は極楽を信じますか?
すると、いやー 半信半疑やなぁと言ったそうです。
極楽があるということは半信半疑やと。
半信半疑じゃ本当の信仰じゃないんですからね。
微塵の疑いも無いというんじゃないとね。
たとえば皆さんには自分の家がありますよね。
毎日家に帰りますよね。
その家があるということは微塵も疑ってないですよね。
それと同じように極楽もあるということです。
平素は家があるというのも忘れてるけど、帰るときには家があるというのを思い出して帰りますよね、れと同じに、いざとなったら極楽があると、極楽へ往生するんだという気持ちが起こってくるんです。
そういうことと同じように自分の住んでる家に帰るんだという気持ちで極楽へ往生するんだという気持ちにならんとだめなんですよね。自分の家があるというのは信じるというより認めてるんですよね。
ですから極楽もあると、認めるんです。
作品名:和尚さんの法話 「阿弥陀経」 2 作家名:みわ