和尚さんの法話 「煩悩」
その玉の足を引きずりながら工事するから、ちっとも捗らない。
こりゃこんなことではとてもじゃないが、命令のとうりに何時いつまでに開拓の工事を仕上げよと言うが、これはとても出来ない。
そこで次郎長は皆を集めて、聞いてくれと。
実は、これだけの面積の場所を何時幾日までに開梱せんならんという命令をわしは受けた。
然しながら、こういうふうに鎖を引っ張ってたら、とてもじゃないがこれは出来ない。
だから、この鎖を全部外してしまうから、身軽にするからそれでお前たちに全部やってもらいたい。
それで若し一人でも脱走する者が出たというようなことがあったら、わしは責任上腹を切らんならんことになる。
そこらへんのことは宜しゅう頼むと。
すると誰ひとりとして逃げなかったというんです。
そして予定よりも早く工事が出来てしまったんです。
それはやっぱり囚人たちもやっぱり偉い親分やと思うてたんでしょうね。
逃げたら逃げ徳でしょうにね。
そりゃあ、次郎長を裏切って逃げたら後でどういうことになるか分からんと思うに違いないかしらないけども、誰ひとり逃げなかったというんだから。
次郎長という人は本当に偉かったと思いますね。
だからヤクザとはいいながらね、ヤクザの親分には木綿の座布団に座らせて、そこらへんのくまさん、はっさんには堅気の人やというて、絹の座布団へ座らせたんですからね。本当に偉かったんだなと思いますね。
これは一芸に秀でたということにはならないとは思いますが、兎に角、次郎長の人柄というのは立派だったと思います。
だからあの人は、一生の間は何一つこすいことはしていないと思いますね。
正義のために止むを得ずに人を切ったんでしょうね。
だから自分の損得を以って何かをしたということは無いんではないかと思いますね。
そういうことで、必ずその信仰とか宗教とかでなければ、人格が磨かれないというものでもないなと思いますね。
そりゃ極楽往生は出来ないかもしれませんけれども、その人柄ですわね。
『決定の業』
やっぱり宗教、信仰というものも今言うたように淨汚の世界で善悪を超越したところへ行かんなりませんけれども、善は善、悪は去って善でなくてはなりませんわね。
そして更に清い心になって行かんなりませんけども、話しは元へ戻って信仰の世界、仏教の世界で言うたら自分の心を磨いて、我というものを失くさないかんと、仏教は無我にて候という歌がありますけども、これがなかなかなれないけれども、ならねばならん、ならねばならんと言うて努力をしなけりゃいかんのじゃないかと思うのです。
どうしても我々は自分に損をかけるやつは憎くなるしね、そしてよくしてくれる人はこの人はいい人だと、どうしても差別と、なってきますけどもね。
目連という人がいますね、お釈迦様には千二百五十人の阿羅漢が居て、その阿羅漢の中から十人を選んだら十大弟子とあって、その十大弟子から二人を選んだら舎利弗と目連。
その目連という人は、殺されるんですよね。
他の宗教家に妬まれて殺されるんです。
殺されるんだけれども、即死はしないんですけど、兎に角それが原因で殺される。
外道と言うて、他の宗教家に妬まれる。
目連一人が妬まれるんじゃなくて仏教全体が妬まれてるんですよ。
仏教は当時、新興宗教なんですよね、お釈迦様がお出ましになる前からインドにはバラモンとかなんとかいうような宗教があって、そして新たに仏教が出来てきた。
ところが教祖様はお釈迦様ですよね、如来様でしょ、お徳が高い。
だからお釈迦様の説法を聞いたら、いったん他の宗教を信仰したからって、皆仏教へ仏教へとなびいてくるのでね。
で、他の宗教家は仏教が妬ましくて妬ましくて邪魔になってかなわん。
信者が減るわけですからね。
それでいろんな手を使って、迫害を受けるわけなんですね。
目連もそのために、外道から闇討ちに遇って殺されるんです。
とのときに外道が目連に、叩いて重傷を負わせて逃げていくわけですね。
そのとき目連は、そっちへ行くなと、そっちへ行ったら私の弟子がそっちから帰ってくる。
覚った弟子はいいけども、そうでない弟子は必ずお前たちに復讐をするから、そっちへ逃げたらあかんから、こっちへ逃げよと言うて、自分を殺そうとした者を安全な方へ逃がした。
これはさすがに目連さんやなと思いますね。
他の弟子たちが見つけてお釈迦様のところへ連れて行って、それから死ぬんですけれども、そのときに他の友達が、君はお釈迦様の最高の弟子やないか。
而も神通第一と言われる。
十大弟子にそれぞれ特技があるわけです。
舎利弗は智慧第一、目連は神通第一と言われる。
神通力が一番優れているんですね。
そういうお前が、こういう死に様をするとは何事だ。
なんで神通力を使わんのか。そしたら目連は、これは前世の決定の業である。
私は神通のじの字も思い出せなんだ。
で、お釈迦さんは、そのとうりだと。
では、どういう決定の業がありますか、と他の弟子が聞いたら、目連の過去の因を知らんと欲せば現在の果を見よ。
ですわね、仏教は。
ずっと、ずっと、数える事の出来ない永遠の過去ですね。
そこに一人の青年が居て、結婚して、夫婦仲はいいんですけど、お母さんと嫁さんとの仲が悪いんですね。
それで婿さんは、嫁さんに付くわけです。
それで或るときに母親に、このくそばばあ殺したろうかと言うたんです。
自分の嫁さんを苛めるから。
殺さなかったんですが、殺してやろうかと言ったんです。
その殺してやろうかと言ったのは目連なんです。
だから仏教は、親を殺したら、昔は親を殺したら他人を殺すよりも罪はきつかったんですね。
それは今はなくなてしまったけど、仏教で言うたら、
「父を殺す、母を殺す、阿羅漢を殺す、仏様の身体から血を出す、仏教教団を破壊する」
これを五逆罪と言うて大変な罪になるわけなんです。
で、その母親を殺しはしなかったけど、このくそばばあ殺したろうかと。
そのとき瞬間に殺意はあったかどうか分かりませんが、そう言うたんです。
その罪によって目連は、いつ生まれても、いつ生まれても過去五百生の間、殺されて最後を遂げているんですね。
病気で死ぬんじゃなくて、殺されて最後を遂げてる。
で、今生で殺されてこの罪で全部消えたということです。
だから、親にこのくそばああ殺したろうかと言うたら、この目連と同じようにいつ生まれてもいつ生まれても殺されるということになりますね。
口で言うただけで心に思うただけですよ、実際に殺してないんですよ、殺してたら無間地獄に落ちるんですけどね。
そういうことで仏教は因縁因果の教えですから。
その目連は、まだ凡夫のときに自分の母親を殺してやろうかと罵った、その報いによって、いつも生まれても殺されて、生まれては殺されて、これで最後だと、いうお経があるのです。
然しながら目連は、自分を殺そうとした者にそっちへ逃げるな、こっちへ逃げよと。
そういう心境ですね。
なりたいものだなと思いますね。
作品名:和尚さんの法話 「煩悩」 作家名:みわ