和尚さんの法話 「煩悩」
最近は、葬式はしないという人が増えてきてるそうですが、あの世が無かったらそれでいいと思います。
こんな話も聞く必要が無いわけですし、坊さんも仏教も要らんわけです。
ところが、あの世があるとなったら、あの世へ行ったときに困らないようにしておかんといけませんね。
冥福を祈るという言葉がありますが、あの世の幸せをお祈りいたしますという言葉があるように、あの世の幸せですね、冥福、幸福があるわけですが、あの世へ行ってから私はこっちの幸福を、と選ぶわけにいかないわけです。
向こうで決められてしまうわけです。
おまえはこっちと、決められてしまうんですね。
その間が四十九日残ってますけど、その根拠は何を条件にしてそうなるかというと、この世の行いなんですよ。
この世でやった行いによって、この人間はここが相応しい、この人間はここが相応しいと、こうなるわけです。
或る方が息を引き取ったら、もはや悪いことも出来ないけれども善いことも出来ませんわね。
生きてるときにこそ出来るけど死んだら出来ないわけです。
生きてるときは、悪いこともすることが出来るけど善いことも出来るんです。
死んだら出来ない。
だから生き残ってる遺族が、その死んだ人の代わりに供養をしたりして功徳を積んで其の人のしたことにしてあの世へ送ってあげるのが回向という意味なんです。
特に大事なのが中陰の勤めなんです。
だから死んだあとから誰かにしてもらわんならんというのでは困るので、死んだらあの世でいいところへ、すっと行けるように用意をしておきませんとね。
それは善いこともさながら信仰なんですよ。
信仰というのは、阿弥陀様なら阿弥陀様にどうぞ極楽へ連れてって下さいと。
どうぞ私を極楽へ引き取って下さいという切なる気持ちを以って、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称える。
お地蔵さまだったらお地蔵さまに南無地蔵大菩薩、南無地蔵大菩薩、あの世へ行ったらお地蔵様にお任せ致します、どうぞお引き取り下さいと。
自分が信仰をしている仏様は掴んで離さないと、そういう気持ち。
それが信心なんです。
兎に角、あの世へ行ってからでは遅いんです。
この世で信仰をしておかんとだめなんです。
そこのところをよく心得て頂きたいと思うのです。
何時死ぬか分かりませんからね。
まだ死なないと思うても当てになりませんからね。
和尚さんの寺の檀家さんで、御主人が病気で具合が悪くて何時死ぬか分からんというので、奥さんが葬式の用意をしてたんです。
ところがその奥さんが先に死んでしまったんです。
だから病人が先に死ぬとか、年寄りが先に死ぬとか、誰が先に死ぬか分からんのですから。
無常の風に誘われた者が先に死ぬんです。
業平(なりひら)という方が読んでる歌の中に、
「終に逝く道とはかねて知りたれど昨日今日とは思わざりけり」。
終に逝くとは死んでいくということはあの世のことですね。
死に逝くということは知ってたと、いずれ人間は死ぬんだということはよく知ってたけれども、昨日や今日とは思わなかったと。
だからあの人は急に起こったんでしょうね。
そういう歌が残されていますね。
どうぞそのつもりで、あの世でよい思いをさせて頂きたいと思います。
了
作品名:和尚さんの法話 「煩悩」 作家名:みわ