和尚さんの法話 「煩悩」
そしたらそのお父さんは、その生まれた子を白隠禅師のところへ持って行って、この子はあんたの子やから、あんたが責任を持って育ててもらいたいと言って、その子供を白隠さんに押し付けてくるんです。
それで白隠さんは、ああそうかそうかと。なんということを言うんだと、そんなことは言わなかった。
ああ、そうかそうかと。それでその子を引き取るんです。
ここが偉いなと思うんです。覚ってるからでしょうね、覚ってるからそんな気持ちになるんですね、自然と。
ところが、弟子はいるけど女手がいないわけです。
昔のお寺ですからね。
ところが子供はまだ乳を飲んでる最中でしょ。
お乳をもらいに行かんならんわけです。
昔はお乳をもらうというのがあったんですね。
昔は牛乳というのがなかったからね。
だから子供が生まれてすぐに死んだというような人を探してお乳をもらったんですが、白隠さんはその子のために毎日毎日お乳をもらいに探し回るわけです。
雨が降っても風が吹いてもこれはやめるわけにはいかんわけです。
その子を助けるためにはね。
そしてその八百屋の前を通って行くわけです。
毎日、誰か乳をやってくれる人はいないかと。
それを八百屋の娘さんは家の中から見てるわけです。
そのうちに胸が詰まってきて、一言も弁解もせずにしているわけですからね。
それを見て尊敬もし、悪いことをしたという気持ちが湧いてきて、お父さんに、実は私は嘘を言いました。
この子のお父さんは白隠さんと違います。
では誰の子だ。
実はこうこうこういう人の子だと。
おまえは、なんということをしてくれたんだ。
わしはえらいことをしてしまったじゃないか。
と、今度は娘さんがえらい怒られるんですね。
兎に角そこで、白隠さんに誤まるわけですね。
うちの娘はとんでもないことをしてくれたと。
それで白隠さんは、そうかそうかと。まあそう怒らんと、縁あってそうなったんだから、もう添わせてやったらどうかなと。
結局それで仲立ちしたという、そういうことが白隠禅師の一生の間にあるんですね。
それが弁解しないというのが、これはとてもじゃないが、これは真似のできないことですよね。
普通なら誰でも自分に覚えのない子なら自分じゃないと言いますよね。
ところが白隠禅師は、ああそうかそうかと。
それは何処までいってるのか分かりませんが、無我に近いところにいってるに違いありませんよね。
兎に角、あの世を認めなければ、信仰であろうが善であろうが到達することは出来ないと思いますね。
そしてこれはお念仏の信者の方で在家の真宗の方なんですが、真宗の人で信仰の深い人を妙好人(みょうこうにん)というんですね。
真宗にその妙好人というのが何人かいるそうです。
名前は忘れましたがその妙好人の経験なんですが、その妙好人というのは初めから仏教の信者ではなくて、初めは鼻つまみの者だったそうです。
盗みはするし、嘘はつくしというようなはねのけものだったそうです。
そして或るときに、お寺の縁側で昼寝をしてたんです。
そうしましたら、なんとなく声がするので眼が開いたら、お堂の中でお説教が始まってたんですね。
そして知らん間に聞いてたんです。縁側で寝転んで聴いてたんですね。
その説教の内容というのが因果応報の話しだったんです。
善因善果悪因悪果。
いいことをしたらこうなる、悪いことをしたらこうなると。
悪いことをしたら地獄へ落ちるというような話しをしてたんですね。
昔の人は、今の人に比べたらはるかにあの世を信じる人が多かったわけですね。
地獄、極楽を信じてた。
『善因善果悪因悪果』
で、その妙好人も、そういうことは分かっていたんですね。
悪いことをしたら地獄へ落ちるんだと、自分は地獄へ落ちるんじゃないかと。
思いはしながら改めることが出来ないで悪いことばっかりやってた人なんですけども。
ところが、この話しを聞いて、これはいかんぞと、自分のやってることは地獄へ落ちるなということばっかりやってると、これはえらいこったな、という気持ちになってきて、それで障子を開けてそろりそろりと入り込んできて、末席でその説教を聞いたんですね。
それが始まりなんですよ。
それでころっと人間が変わってしまったんです。
今までの悪い心が全部無くなってしまって、それからあっちの説教、こっちの説教と、お説教ばっかり聴きに回ったんですね。
それで終には人のために信仰の話しをするということになってきたんです。何年もたってる間にね。
そして世の中の人は、あの人はえらい変わりようやなあ、あんなにもあるもんかと言うくらいに、すっかりと信頼するようになったわけです。
そして人様にお話しをするというようになってきて、そしてちょいちょい他所のお家へ呼ばれるわけです。
今日は人さんを呼びますよってに貴方さんに来て頂いて、お説教を聞かせて下さいませんかというて、そういうふうになったんです。
そしてその或るときに、お説教を聴いて帰っていくわけなんですが、そのときは他人さんは来てなかったんです。
そしてそのご主人が、ちょっとお金の要ることが出来たのでいつも入れてる箪笥の引き出しを開けたんですが、お金が無いんです。
それで、はてなと思うたんですね。
今日は家へ来た他所の人というのは、あの人だけだと。
他の人は誰も来てない。あとは皆家族だ。誰も他所の人は来てないし、家へ上がったのはあの人だけだと。
ところが、お金が無くなってる。
そうすると、あの人が盗ったんかな、とこうなったんですね。
そうして他を探しても出てこないし、これはもうてっきりあの人が盗ったんだなと。
しかし、あそこまで来た人がなあ。やっぱり昔の性は改められないのかな、と思うて。
それはそうとうまとまったお金だったらしいんですね。
そしてそこのお家へ行って、恐縮でございますが、ひょっとしてうちのお金がお宅へ行ってませんやろうか。
そしたらその人が、幾らでございましたでしょうか、とこう言うたんですね。
幾ら幾らでございました。
ああそうですか。
それでお宅にあった金額の大きい金額小さい金額の合計幾らと、そのとうりにはなりませんけれども、合計は合計ですので、というた金額を持ってくるわけです。
どうぞお持ち帰り下さいと。
それで、ああやっぱりそうだったのかと。
この人はあそこまで修行をなさっても、やっぱりだめだったのかと、思いながらお金を持って帰ってくるわけです。
そして、結局わかったことが、そこの息子がそのお金を使ってたんです。
それがあとで分かってきて、なんでそれを先に言わないのかと。
わしはえらいことをしたやないかと。
それになんであの人はそれを弁解しなかったのだろうなあ。
兎に角、あの人やない、うちの息子やということが分かったもんやから、またびっくりして、そのお金を持ってった。
そして間違いでございました。息子でございました。
と言うて謝りに行って、で、貴方さんは何で一言いうてくれませんでしたんや。
作品名:和尚さんの法話 「煩悩」 作家名:みわ