和尚さんの法話 「死者と仏事」
この忌むということは、死んだことを忌むというのを言ってるのではないのです。
死んだらあと、冥福を祈らないとなりませんね。
謹んでご冥福を祈るわけです。
冥福というのは、あの世の幸せという意味ですね。
冥途の幸福という意味ですから、あの世の幸せを、少しでもいいところへ行ってもらいたい、少しでもあの世の幸せを獲得してもらうように、ということを残った人が祈るわけです。
今では、亡くなった人があると、あくる日から商売をするというような時代ですが、昔は亡くなった人があると、戸も閉めて商売も休んで、ひたすら冥福を祈ったのです。喪に服すんですね。
それくらい一所懸命に亡くなった人のために祈ったんです。
商売をしたり遊びごとをすることを忌み嫌うというのです。
忌み嫌うというのはそういう意味なんです。
だからそこの家は、そういうことを忌み嫌って祈る家だという意味です。
だからそこの家へは遊び事を誘いにいっちゃいかんということの目印なんです。
遊び事を忌み嫌っている家だという意味です。
だから「忌」と書いた紙を貼ってたら、ここの家は誰か亡くなった家だから遊びごとを誘いにいったらいかんな、遊びごとを忌み嫌ってる家なんだという意味なんです。
死んだ人を忌み嫌うという意味じゃないのです。
先ほどいったような穢れというような意味と違うのです。
七日ごとに四十九日のお勤めをする。
ということをお経にちゃんとあるわけです。
こういうことはお経に従ってあるわけです。
そして死んだあとの人は、中陰の世界へいってぽうっとしてるとあります。
そしてあの世にはいろんな世界があっていろんな裁判を受けるところがあるのです。
現在言われているように、七日ごとにいろいろな仏様の日だといいますのは、あれはここからきてるんですね。
あちこちに裁判所があって、公平に生まれさせなければいけませんから、その人の一生の間の行いによって、もっとも適当な相応しいところへ送らなければいけないから、ここで決められ、ここで決められというように、手落ちのないように何べんも調べられるわけです。
その間に、家族は亡くなった人のために坊さんにお金を払ってお勤めをしてもらって功徳を積むというようなことをしてあげると、死んだ人はその七分の一の功徳を受けることになるのです。
生きてるときに何もいいことが無い。そして大きな罪を積んで、命終の後は当然そういう人は悪い所へ行くはずなんですね。
そいう人が死んでから残った人が少々の追善や法要を行っても、向こうへ届くのは七分の一しか届かないのです。
七分の六の功徳は施主自らが受ける。
だから勤めてもらった死んだ人よりも、勤めた生きてる人のほうが功徳が大きいということです。
だから死んだ人のためにと思って勤めているけれども、自分のためになっているということです。
生きてるときに一所懸命になってやってると、それは自分の功徳になるのです。
七分の七の功徳になるわけです。
まるまる自分が功徳を受けることになるのです。
和尚さんのお話に、或る若い女の方が小さい女の子を連れて訪ねてきたのです。
たまたま和尚さんが居まして、いろいろ相談を受けたのですが、それはなにかといいますと、その子供さんが喘息なんです。
小児喘息ですね。
そのお母さんは、何処かでそれは先祖が迷うてるのと違うかと、或は方角が悪いのと違いますかと、家相が悪いのと違いますかといわれるわけです。
そういうことで、和尚さんに相談に来たわけです。
そして向かい合っていろいろ話をしていましたら、その奥さんの前に、水子じゃないんだけど、生まれてすぐに死んだか、生まれるまえに死んだか、とにかく死産ですね。
そういう霊が見えたそうです。
おそらくはその子はお経をもらっていないなと思ったんですね。
ほったらかしですね。
そういう場合はたいがい陰気なんですね。
子供であろうが大人であろうがね。
それでその奥さんにこういう子はありませんかと聞きますと、私はございません。
そんなことは思い当たりません。
この子だけですと。
ですが家のお母さんはわかりませんと、いうことです。
それがどうかしましたかと。
多分この子は、あなたの子ではなくて古い感じだからお母さんの子でしょう。
古い古いずっと前に死んでるような感じがしますからと。
ですが、そんな子を供養をしないでほってあるから、あなたの子供が喘息になったのとは違います。
そのほったらかしになてる子供とあなたの子供さんとはなんの因果関係もありません。
あなたの子供は生まれながらの喘息ですから、この世に原因は無いのです。
あればあの世です。前世のことですね。
つまり前世の業を持って生まれてきたのです。
病気になるというなにかの不徳がこの子供にあって、それが喘息という形になって出てきたのであって、家相がどうの方角がどうのと、そしてまたその子供さんをほったらかしにしているからどうのと、それは全く関係ないんですと。
若しあなたのお母さんなり姑さんに聞いてそういう子供があったとすると、その子供さんのためにちょっと丁寧にお寺で勤めてもらいなさい。
そして亡くなった人をお勤めする場合に、七分の一の功徳が向こうへいってるわけです。
大は大なり、小は小なりにね。
お布施が大きければ七分の一も大きくなるわけです。
ですからちょっと丁寧にしてもらいなさいと。
残りの七分の六の功徳は施主が受けるのだから。
だからお寺へ供養に行くときにその子も一緒に連れていって、その和尚さんが拝む後ろで、その七分の六の功徳とやらは、本来なら私が受けるのですが、この子供にやって下さいと。
この子供を施主にするということですね。
この子供に施主になって、亡くなった知らない子供だけど、施主となって勤めるということです。
そうすると七分の六の功徳はこの子供が受けるはずだから、きっと病気は良くなると思いますと。
ちょっとでも病気はよいほうへ向かうと思いますと。
そして家へ帰って、お母さんに聞いてみますと、お母さんが若い頃に、子供を便所へ生み落としたそうです。
すぐに便所から出したけど、すぐに死んだそうです。
その子だとわかったのです。
そして寺へいって、、その子供のためにと供養をしてあげると、子供の病気がよくなったということがありました。
だからこの七分の六の功徳を受けるといいますが、店でなにか買い物をしたらそれは全部自分のものでしょ、ところが仏事のことは向こうへ渡してしまうのでいったきりでしょ、なにも戻ってこないと思ってしまいますが、ところが功徳がきてるわけです。
しかも、死んだ人の受ける功徳よりも、勤めた人の受ける功徳のほうが大きいのです。
そういうことですから、先祖のことは惜しみなくするといいですね。
これも自分のためになることですからね。
また、或るお客さんがきましたのですが、これはまた立派な武士の先祖が出てきたわけですが、ところがこの先祖が陰気なんです。
これはもうお経をもらってないな、と和尚さんは思ったのです。
作品名:和尚さんの法話 「死者と仏事」 作家名:みわ