和尚さんの法話 「死者と仏事」
それが除かれる。と、それくらいこれはお念仏の功徳ですよね。
「下品下生とは、或は衆生有りて不善の業たる五逆十悪を作り諸の不善を具す」
いろんな罪、もうこの人間ほど罪の深い者は居らんだろうと、人は殺す、物は盗る、嘘は言うし、あらゆる罪を作る。
場合によっては親も殺す。
そういう不善のことを五逆罪というのです。
父を殺す、母を殺す、阿羅漢を殺す、仏教教団を破壊する、仏様を傷つける。
この五つの罪です。
そういう罪でも除かれるというのです。
「各の如き愚人、命終のときにもって、善知識(坊さんとか、信仰の非常に深い人のことを善知識というのです)その善知識が今死ぬという人に、おまえしんどいか、しんどいと思うけどよく聞けよと、慰めながら説いて聞かせるのです。
説法をしてお念仏を称えなさいというのですね。
ここの場合の念仏というのは、南無阿弥陀仏と称えるのではなくて、心の中に如来様のお姿を思い浮かべよと、そういう念仏なんです。
観仏というのですね。自分の心に仏様を描いて観ることです。
これも念仏というのです。
それをまずその人にすすめたのです。
ところがこの人は苦に攻められて、とても念仏することができないのです。
苦しくて精神安定ができない。
それができないのであれば、せめて無量寿仏と念じなさい。
無量寿仏というのは阿弥陀様のことですね。
だから南無阿弥陀仏と称えなさいといったんですね。
仏様を思い浮かべることができないのであれば、それならば南無阿弥陀仏と称えよと。
それならできるだろうとね。
一心に十念唱えよと。
一遍、一遍の念仏のなかに八十億劫の罪が除かれるのです。
これが枕経なんです。
枕経というのは、本来死んだ人にじゃなくて、これから死んでいく人の陣頭ですね、枕辺で。
死んでからとなると、追善供養ですね。
例えば年忌の法要とかね。
『中陰』
さてもう亡くなりましたら、あとは中陰ですね。
この中陰というのは、七日目ごとになってるんですが、七日たたらある人は、生まれて行く。
また七日たったら或る人は、生まれていく。
七日で生まれる人もあれば四七日で生まれる人もあれば、四十九日で生まれ変わる人もある。
中陰というのはこの世で死んでまた何処かへ生まれるわけです。
只生まれるということは、人間界へばかり生まれるということじゃないということです。
先ほど言うたように地獄へも生まれることもある。餓鬼道へ行くことも、これは生まれるというのです。
畜生になるのも生まれるのですよ。
そういうふうに、あの世にもたくさん生まれるところがあるわけです。
人間界だけじゃないということです。
その人間界にも上中下とあるし、地獄にも上中下とあるし、畜生にも上中下があるわけです。例えば天皇陛下の馬。あの馬は幸せじゃないでしょうか。
今のペットなんていうのも幸せですね。
捨てられるペットもあれば、病院へ入れてもらえるペットもあるし、野良犬になるのもありますね。
矢畜生にも上中下があるわけです。
どの世界にも上中下があるのです。
全ては自分の業によって決まる。
自業自得なんです。
だれが決めるわけでもない自業自得なんですね。
自分の責任なんです。
ですから中陰の勤めというのは、少しでもよいところへ生まれてもらうために七日目ごとに勤めるわけです。
なんで早い人と遅い人とあるのかといいますと、つまり、或る人は四十九日たったら生まれ変わる。
中陰というのは、この世で死んで何処かへ生まれ変わるんだけれども、その生まれ変わるというのは偶然、つまり豆をにぎってぱーっと投げると何処へ転がるかわからない、それは偶然ですね。
そうじゃなくて、人間が生まれるというのは、甲という人間は、これだけの善悪の行いがあるから、ここへ生まれると。
この人間は、ここと。行いに相応しいところへ生まれることになってあるのです。
例えば、或る人は地獄。
そして或る人は天上界。
或る人は人間界。
それは偶然じゃなくて、この世の行いによって決まる。
お経にはそう説いてありますね。
それを、少しでもよいところへ生まれてもらいたいという遺族の願いがある。
その願いを込めて七日目ごと七日目ごとに勤めてるんです。
あれは毎日勤めてもいいわけですよね。
そして仏事は遅れたらいかんといいますね。
それは中陰は遅れたらいかんのです。
生まれる先に功徳を渡しておいてあげませんと、既に生まれてしまったところへ届く。
無駄ではありませんけど、生まれたところで功徳を受けるのですから。
ところが中陰は、よいところへ生まれさせるために勤めるわけだから、勤めて良いところへ生まれてもらうために勤めるのだから生まれて行った先へ届くのでは手遅れなんですね。
そこで受け取るから無駄ではないのですがね。
先に渡してあげたらもうちょっといいところへ行けたかもしれないしね。
早くもらっておけばもっといいところへ生まれてあったのに、ということなんです。
だから遅れたらいかんのです。
なんでもかんでも遅れたらいかんと思わなくてもいいのですが、この中陰だけが遅れたらいかんのです。
だから月のお参りであろうが年忌の法要であろうが、これは遅れてもいいのです。
もう既に生まれてるんですからね。
生まれた先の功徳が早いか遅いかというだけのことですから。
それは早いほうがいいですね。
ですがそれを早くもらうとか遅れるとかいうことで生まれる場所が違うというような問題ではないから。
だから年忌の法要は遅れてもかまわないのです。
中陰は遅れたらいかんのです。
こういう言葉もあります。
「極善極悪、無有中有」
といって、極善の人、極悪の人ですね。極端に善人。極端に悪人。
中有というのは、中陰のことです。
無有中有ですから中陰が無いということです。
ですからこういう人は、死んだら中陰へ行かずにすぐに生まれるところへ生まれて行くということです。
もの凄く善人とかもの凄く悪人というのは、生きてるときから行き先が決まってるわけです。
だからそういう人は中陰を経ずしてすぐに生まれるところへ生まれ変わっていくというのです。
「無有中陰」ということです。
だから極楽に往生する人も、もう阿弥陀様がお認めになっているのだから、どんな罪があっても信仰によってその人の罪が消えて、そして極楽へ往生させていただける。
それはもう息を引き取ると同時に阿弥陀様がお迎えに来てくださるから。
だから中陰は関係ないのです。
それからついでのことですが、亡くなったら「忌」という字を書いた紙を貼りますね。
これは忌むということですね。
避けるということです。
だからあの家は死んだ家だなとわかるわけですね。
神道というのは死んだ人を嫌いますね。
仏教は喜びです。
キリスト教でも死んで天国へいくというので喜びですね。
ですが死後に行くところによって違うわけです、極楽へいくのであったら喜ばしいことですね。
作品名:和尚さんの法話 「死者と仏事」 作家名:みわ