王都バルムンク物語
ロレンツォは女への接し方も、愛し方もまったく知らない、聖職への道を選んだことを、このときほど深く後悔したことがなかった。
「また、人間は神々の多くにとって、穢れた存在です。見つかっては殺されます」
だが、ロレンツォは愛したかったし、ヴェルザンディもまた、ロレンツォにだけ、愛されたかった。
だから・・・・・・ロレンツォは勢いあまって、彼女の下着を奪って隠してしまい、天界に帰らないでほしいとしつこく願った。
だが、彼女は姿を消してしまい、ロレンツォは神への忠誠を恐れたのだった。
「ヴェルザンディ、ゆるせ、ゆるしてくれ!」
――世界と、女神たちの命を天秤にかけるなど、ありえないことだ。
一瞬脳裏によみがえった、バージルの声がこだまする。
犠牲は増やしてはならないと自分は答えていた。
だが、自分ひとりと彼女ら三人の命で、数千、数万の命が助かるならと、ロレンツォは願うのだ。
願ったのだが、どうにも胸中から湧き出る矛盾からは、逃れられそうもない。
「いかなる事情であれ・・・・・・いかなる相手であれ、私には殺せない・・・・・・! だがやらなければ、壊滅してしまう。私はどうすればいいんだ。教えてくれ・・・・・・」
「私の命だけで、ユグドラシルを救えるなら」
現れたのは、聖域の美女、ヴェルザンディ。
ロレンツォは懐かしさで胸を満たす。
「ヴェリザ・・・・・・。僕は、みんなを救えぬほど非力で、愚かな道化師にすぎない」
「そんなことないわ」
ヴェルザンディは、ロレンツォの頬をやさしくなでた。
「そんなことないから。あなたはやれるだけのこと考えたんでしょう? それでここまできたのでしょう。誰も恨まない。わたしもね」
「ヴェリザ・・・・・・ヴェリザ、すまない」
「わたしも。恨んでなどいませんから・・・・・・ロレンツォ!」
ロレンツォはグラムを投げ捨て、ヴェルザンディと抱き合った。
「会いたかったよ、会いたかったんだ。ああ、どうして、どうして君を殺せようか! こんなに愛しているのに!」
「会いたかったのは、あなただけではありません、わたしもです」
ヴェルザンディの瞼から、止め処なく流れ落ちる涙。
ロレンツォも同じように、涙を枯らすほどに泣いていた。
だが、次の刹那。
すぶり、という、肉を裂くような音がし、ロレンツォはあとじさる。
「いま、何をした・・・・・・」
ヴェルザンディの右手から、真っ赤な鮮血がぽたり、またぽたりと滴り、地面へ水溜りを作っていく。
「ヴェル・・・・・・ザン、ディ・・・・・・」
吐血し、ロレンツォはひざから順に倒れ伏す。
「これで、これで」
うわごとのように繰り返し、ヴェルザンディは血まみれのナイフを投げ捨てると、代わりにグラムを手にとって、かまえる。
「最後に、これでおしまいよ」
さようなら、とつぶやき、ヴェルザンディはグラムの刃先を下に向け、一気に振り下ろそうとしたが、できなかった。
ヴェルザンディは、グラムの魔法に打ち勝てず、焼け爛れた皮膚に布を巻いて、その場から立ち去っていった。
ロゼッタは水晶玉から一部始終を見ており、両手で顔を覆う。
ロレンツォの気持ちが痛いほどわかってしまったから。
「私も、会いたい。あなたに会いたいのに・・・・・・」
ヴェルザンディは女神だ。
だが、ロゼッタはそんな肩書きなど関係なく、ゆるせなかった。
愛するものを傷つけられ、ロゼッタの胸中に、不安と嫌悪感とが広がって、どうにも自制がききそうになかった。
ロゼッタは涙を拭いて、ロレンツォの倒れた場所へ駆け出し、赴く。
ロレンツォが気づいた時刻は、夜半を回ったころ。
胴には包帯が巻かれてあり、自分は助かったことをにわかに悟った。
ロゼッタはロレンツォが意識を取り戻したことを知ると、微笑んで水を与えた。
「ありがとう。あなたが助けてくれたのですか」
「私は、魔女よ」
ロレンツォには、その一言ですべてを理解してしまう。
「全部、知っていてあなたは」
ロレンツォは恥も隠さずに涙を流す。
「ロレンツォ・・・・・・」
ロゼッタはロレンツォの脇に腰掛けて、頭を抱き寄せた。
「知っていたおかげで、あなたを助けられたんだから。でも私、彼女を赦さないわよ」
「それは」
ロレンツォはロゼッタの、殺意に満ちた表情に、思わず言葉を飲み込んでしまう。
「相手は女神で・・・・・・」
「女神だろうがなんだろうが、あたしはやる」
「ロゼッタさん・・・・・・」
ロレンツォは困ったように頭をかいた。
「そうですか。止めても無駄のようですねえ。そういえばグラムはどうなったんですか」
「あの剣なら、持ち主のもとへ・・・・・・。ねえロレンツォ。そんなことより、これからどうするのよ」
「え、ど、どうするって?」
ロゼッタはロレンツォににじり寄り、じれったいわね、といやみを言った。
「あたしとここで、暮らさないかって、言ってるの」
ロレンツォはそれはできないと頭を縦には振らなかった。
「わかってる。でも、あいつはあんたを裏切ったんだ。だったらせめて、忘れなちゃいなって!」
「忘れることができるなら、やり直したいよ・・・・・・」
ロレンツォは止め処なくあふれ出す涙を、必死になり手で受け止めようとするが、間に合わずに、するすると、指の隙間から零れ落ちていく。
「もういちど、あのころから・・・・・・修道士になる前からやり直したい・・・・・・過去の一切を捨て、真っ白に・・・・・・」
「なれるわ」
ロゼッタは、作り終えたばかりの薬をロレンツォに与えた。
「この瓶の中に、忘れ薬が入っているから、飲んで」
ロレンツォは薬を受け取ると、
「これで、楽になれるなら」
瓶に自分の顔を映しながら、呪文のように唱えるのだった。
その一方で、サラの待つ略奪船に戻った三名の戦士は、全員が顔中に痣を作り、ふてくされていることに吹き出した。
「笑い事じゃないよ」
バージルが苦虫を噛み潰した表情でサラに愚痴をこぼす。
「なにがあったんだなや」
「ロゼッタさんのところで、シグフリード王子が狼藉を働いて」
「あんなの、狼藉じゃねえだろ!」
ライムは肩を脱臼して、イタイイタイと情けない声を出していた。
「あんたら、軟弱な戦士だなあ」
バージルとライムは、返す言葉もなかったという・・・・・・。
「俺は英雄だっ、ばかやろ〜ッ!」
こちらも情けない叫びになりつつあった――。
船は一路、煬帝の待つ東国へ向け、順調に走り出す。
だが、東国には煬帝の姿はなく、いるのは家臣ばかりで、そんなことを露とも知らない若者らは、船旅をのんきに楽しんでいた。
「いい天気だね。これで戦いがなければいいのに」
バージルはつい、本音を言ってしまう。
「おまえはよ、甘いんだよ」
シグフリードがバージルを小突いた。
「煬帝はお前のおやじたちを、魔法で石にした、憎いと想わないのか」