和尚さんの法話 「来迎往生」
五十億劫の間に生まれたり死んだりを延々と繰り返して、生まれては悪いことをして、また生まれては悪いことをしたと、その罪が消えるというのです。
「爾の時の彼の仏」(阿弥陀様のこと)
上品上生の者は阿弥陀様や菩薩様がお迎えに来てくださるのですが、下品上生になると、化仏、化菩薩になるそうです。
お姿は観音様であり、阿弥陀様ですが本当の真の仏様ではなくて化仏なんです。
そんなことはどうでもいい、兎に角救うてもらうことが大切ですね。
「すなわち化仏、化観世音、化大勢至を遣わして行者の前に至らし讃じて言(のたま)わく。善男子、汝仏名称するは故に諸罪消滅せり。我来たりて汝を迎うと。是の語を作し終わり給うに行者(死んでいく人です)すなわち化仏の光明其の室に偏満せることを見る」
阿弥陀様の光明が部屋に充満するように射すのが見える。他の人には見えないがその人には見える。
「後見終わりて歓喜して即ち命終す。宝蓮華に乗じて」
迎えに来てくれるときに観音様が蓮の花を持って迎えに来てくださるのです。その蓮の花の上に死んだ人を乗せて極楽へ連れて行ってくれるのです
「仏の後に随いて宝池の中に生ずーーー」
― 観無量寿経 -
「仏阿難違提希に告げた給わく。上品中生の者とは、或は衆生有りて五戒、八戒及び具足戒を毀犯す。」
こんなことをしたらあかん、こういうこともあかんと、仏様の戒めがあるのです。
「是の如き愚人、僧祇物を偸(ぬす)み現前僧物を盗み」お寺のものを盗み、お坊さんのものを盗む。
「不浄説法して慚愧有る事無く」
自分の利益になるような説法ですね。お坊さんのお説法を聞いてお布施をおく、そのお布施を望んで説法することをいいます。
本当の信仰がないのに、あるような顔をして法を説く、そういうのを不浄説法というのです。
「諸の悪業を以て自ら莊嚴す」
罪を作るということをなんとも思ってない。
「是の如き罪人悪業を以ての故にまさに地獄に堕すべし」
本来ならばそういう人は地獄に落ちるわけですね、そういう人は。
「命終らんと欲する時地獄の衆火一時に倶に至る」
地獄の火が迎えに来るというのです。
鬼が火の車を持って迎えに来るのです。
平清盛が病気になって、死が近づいたときに奥さんが夢を見るのですが、地獄の鬼が火の車を持って自分の屋敷の中へ入ってくるのです。
その夢のなかで周りの人に、あれは何ですか?と聞いてみると、あれは清盛公を迎えに来たと教えてくれるのです。
そういう夢を奥さんが見るのです。
ですから平清盛は地獄へ落ちてるんですね、これは平家物語に出てきます。
「善智識の大慈悲を以て為に阿弥陀仏の威徳を説き広く彼の仏の光明神力を説き」
阿弥陀様の国はこんな国であってと、いうふうに死んでいく人に説いて聞かせるのです。
「此の人聽き終わりて八十億劫生死の罪を除く」
その教えていただいたことを信じて聞くことによって過去八十億劫の間、生まれたり死んだりして犯してきた罪が全部消えるというのです。
「地獄の猛火化して清涼の風と偽り」
今まで地獄の風に吹かれて暑いと感じてるんですが、それが涼しい風に変わるというのです
「諸の天華を吹く」
空中には天から蓮の花が降ってくるのです。極楽往生する人にはそう見えるそうです。
「華の上に皆化仏化菩薩有りて此の人を迎接し給う。一念の如きに即ち往生を得」
一瞬の間に気がついたら極楽へ往生してるといいます。
これはお迎えのところを説いたお経です。
― 観無量寿経 -
「舎利佛、若し善男子善女人有りて」
信仰のある男子や女人が居って
「阿弥陀仏を説くを聞きて」
阿弥陀様とはこういう方でと聞いて「名号を接持すること」お念仏を間があったらお念仏を唱えてる
「若しは一日若しは二日、若しは三日、若しは四日若しは五日若しは六日、若しは七日一心不乱なれば、其の人卒わる時に臨みて」
もう息を引き取るというときに
「阿弥陀仏、諸々の聖衆と共に其の前に現在したまわん。」
その前に現れてくださるというのです。お迎えに来てくださるということです。
「是の人終わる時心顛倒せずして即ち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得む。」
顛倒、錯乱、失念するということが我々にはあるわけです。
そうなると話を聞いても耳に入らないですよね。枕元でお話をしてくださることを、ちゃんと理解できる状態でないといけませんね。
普段の生活で人と話すときは顛倒、錯乱、失念してないから人の話を聞くことができるわけです。
臨終正念(りんじゅうしょうねん)でないと、善智識がいくら立派な話をしてくれても理解できないですね。
平素の常識の話を理解できる状態でないと正念とはいえません。
極楽往生の第一の条件は顛倒、錯乱、失念しないことです。
皆さんが正念場といいますが、その正念は臨終正念からきてるんです。
今これから死んでいく、そのときが正念場なんです、一番大事なときですね。
この正念は自分でするんじゃなくって、阿弥陀様がしてくださるのです信仰があれば顛倒、錯乱、失念しないんです。
― 阿弥陀経 -
「十方に浄土多けれど西方を願うは十悪五逆の衆生のる生まるる故なり」
十悪五逆の地獄に落ちることに決まっているような人でも西方を願えば救ってくださるというのです。
十方にはたくさんの浄土があるけど阿弥陀様の西方を願えば救いに来てくださるというのです。
「諸仏の中に弥陀に帰し奉るは三念五念に至る迄自ら来迎し給う故なり」
十方には仏様の浄土は浜の真砂の数ほどあるが、何故浄土を選ぶかと聞くと、三念、五念、一遍の念仏を唱えるだけでも救うて下さると、だから阿弥陀様にお願いするのだということです。
― 法然上人法語 -
「善導の御心にては、極楽に参らんと志して多くも少なくも念仏申さん人の、命尽きん時は、阿弥陀仏、聖衆と倶に来りて迎え給うべしと候えば」
善導大師がそうおっしゃってるからと、いうことです。
「日頃だに御念仏候わば、御臨終に善智識候わずとも、仏は迎えさせ給うべきにて候」
これはある人が法然上人に対してもし、臨終の善智識が無かったら往生できるのでしょうか、できないのでしょうかと質問しているんです。
そして法然上人が「善導の御心にては、極楽に参らんと志して多くも少なくも念仏申さん人の、命尽きん時は、阿弥陀仏、聖衆と倶に来りて迎え給うべしと候えば日頃だに御念仏候わば、御臨終に善智識候わずとも、仏は迎えさせ給うべきにて候」と応えてるんです。
日頃にお念仏を唱えていれば迎えに行くから心配しないでお念仏を唱えていなさいと言ってるんですね。
― 勅修御伝 -
『三心』
小阿弥陀経には、
作品名:和尚さんの法話 「来迎往生」 作家名:みわ