和尚さんの法話 「来迎往生」
「諸の聖衆と共に其の前に現前し給わん。是の人終わる時、心顛倒せずして即ち阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを得と候えば、人の命終らんとする時、阿弥陀仏聖衆と共に目の前に来り給うらんを先ず見まいらせて」
お迎えに来て下さったなあと、これから死んでいく人が見て、そして心顛倒せずして極楽にお迎えして下さるのです。
「後に、心顛倒せずして極楽に生るべしとこそ心得て候」
お念仏を唱えていたら阿弥陀様のお力で心顛倒、錯乱しないんですね。
必ず極楽へ往生させて下さるのです。
― 勅修御伝 -
「念仏すれば終る時必ず来迎させ給う由を存知て念仏申すより外の事候わず。――― 念仏すれば臨終に来迎すという事を一念も疑わぬ方を深心とは申し候」
念仏すれば必ず極楽へお迎え下さるのだから、それを充分信じて念仏すればよいとのこと。
三心というのが大事でして、至咸心(しじょうしん)というのは極端、極限の心ということで、阿弥陀様を信じきって、命も欲しくないほどの心です。
深心(じんしん)というのは深く沈めるのですね、何かの拍子にぱっと、いつでもすぐにお念仏が出てくる。
この深心が一番根本だと思うのです。
極楽へ往生したいと思っていても人と話していたら忘れることがありますね、しかしながら信心を結合していたら何かの拍子にぱっとお念仏が出てくるんです。
ですから微塵の疑いも無く信じていたら必ずお迎えに来て下さるのです。これが深心というのです。
今の親は自分の子供でも殺すというような親がいますが、本当の親だったら子供を助けるのに自分の命をほってでも子供を助けるというのが親心ですね。
これくらいの親心が絶えずあるという心なんです。
近所の人と話をしていると自分の子供のことも忘れていますよね、だけど何かの拍子にぱっとこう交通事故の話しでも聞けば子供のことを思うこの心なんです。
和尚さんの小学校時代の話ですが
根来仁三郎という校長先生が居って、その人の息子さんが、和尚さんの寺の横の山の上から落ちたんだそうです。そして気絶してしまったんです。
それを学校で授業をしている校長先生のところに知らせに来たんです「校長さーん、お寺の山の上からあなたの息子さんが落ちましたよー」と、すると校長先生は窓から裸足で飛び降りて寺に向かって跳んで走ったそうです。
その息子さんは助かったそうですが、山は断崖になっていてかなり高い山だそうです、寺の地蔵堂の裏の絶壁だそうです。その上から落ちたんですが、子供の話を聞くと上から落ちてちょうど地蔵堂の窓の屋根の上まで落ちてきたときに窓から黒い衣を着た坊さんが現れて空中で子供を抱きとめたと言うのです。そのまま子供は気絶してしまったんです。
これはお地蔵様が子供を助けてくれたに違いないということになったそうです。この校長先生が驚いて窓から飛び降りて走っていったと、こういうのが深心なんです。
授業をしていたのも忘れて子供のところへ跳んでいった、この深い心ですね。
「他力と申し候は、第十九の来迎の願にて候。」
浄土門は他力と言いますが、天台とか真言とか禅宗とかは自力ですね、自分の力で修行をして自分を救うというのが自力。
他力というのはそれはとても出来ないというので阿弥陀様におすがりして救うて戴こうというのが他力なんです。
他力の願は第十九の来迎の願が他力の根本なんだというのです。だから法然上人はいかにこの来迎を重要視してたかということがわかりますね。
― 勅修御伝 -
「されば善導和尚すすめて曰く、『願わくは弟子等、命終の時に臨んで心顛倒せず、心錯乱せず、心失念せず。身心に諸の苦痛無く身心快楽にして禅定に入るが如く、聖衆現前し給い仏の本願に乗じて阿弥陀仏国に上品往生せしめ給へ』と、ねんごろに発願せよとの給えり。いよいよ臨終正念をば祈りもし願う事なり。」
臨終正念を祈りなさいと法然上人がおっしゃってるのですね
「臨終正念を祈るは弥陀の本願を頼まぬ者ぞなどと申す人は、善導にはいか程勝りたる学生ぞと思うべきなり。あなあさまし、おそろしおそろし。」
こういう考えを持った人が法然上人のお弟子のなかに居ったんでしょうね、それを戒めて善導大師は祈ってるではないかと、祈るということを間違ってるというのはそれはもうあなあさまし、おそろしおそろしと言ってるんですね。
臨終正念と来迎を信じるというのが極楽往生の一番大事なところです。
了
作品名:和尚さんの法話 「来迎往生」 作家名:みわ