和尚さんの法話 「来迎往生」
『阿弥陀様』
「若し我、仏を得たらんに、十方の衆生菩提心を発して諸の功徳を修し、至心に発願して我が国に生ぜんと欲せんに、寿終わる時に臨みて、若し大衆の為に囲繞(イニョウ)せられて其の人の前に現ぜずんば正覚を取らじ」
来迎往生というテーマですが
往生というのは行き生まれるということですが
極楽に生まれることを来迎往生というわけです
そして極楽に往生するときには必ず阿弥陀様がお迎えに来て下さるのですが、そのお迎えに来て下さるのを来迎というのです。
来たり迎えるということですね。
これが浄土門の大切な教学なんです。
この 「其の人の前に現ぜずんば」
というのは来迎するということですね
もし、極楽に往生する者があって、わしが迎えに行くことができないと、いうことがあれば自分は仏に成らんと。
阿弥陀様はご存知の方はいらっしゃると思うのですが、仏教は我々が皆、如来に成れるんですね修行次第で、信仰しだいでね。必ず仏様に成れるんです。
我々だけじゃなくて、犬でも猫でも虫もですよ。
霊魂は不滅なんですから 業が深いが為に畜生になったり魚になったり鳥になったりしてますが、我々の霊魂と変わらないんですよ。
とにかくまずは人間に成らないと法を聞く能力がありませんから、まず人間に成るということが大切です
人身受け難しというお話を以前にも書きましたが、人間に生まれるということは並大抵のチャンスでないと生まれることは出来ないんだというお話をしましたが、それくらい我々人間は生まれ難いんですよ。
救われるというのは人間か天上界、この二つしかないんです。下はまず人間に上がって来ないと救われないということになってます。
そこで阿弥陀様は仏教はキリスト教のようにはじめから完全無欠の神様というふうな教学じゃないんです。
仏教ではみんな修行をして段々と位が上に上がって行って声聞となり縁覚となり菩薩と成りそして如来に成るという教えなんです。
みんな仏に成れるんです、虫も仏に成れるんです。
お釈迦様もかつては自分も地獄へ落ちておったということを、お経に出てきますが、我々も況や地獄へ落ちておったに違いないと思うのです。
そこで改心してどれ位の時間がかかったか判りませんが、生まれたり死んだりしながら 今日今こうして兎に角ここまで来てるということです。
阿弥陀様がまだ如来になる以前に国王としてこの世に生まれてきたことがあるんです
お釈迦様も国王としてこの世に生まれましたが、阿弥陀如来もかつては国王として生まれてるんです。
何回も何回も生まれ変わってこの世に出てきてるんですが国王として生まれたことがあるんです。
そのときにたまたま世自在王如来という仏様がお釈迦様がお生まれになってたように お生まれになってたんです。
この仏様がこの世にお生まれになって説教をしてたんです。
阿弥陀如来様がまだ在家の方でした、国王でしたからね、その国王が世自在王如来様の説法をお聞きになって世自在王如来様のような仏に成らねばならんと言って誓いをたてたんです。
そして自分が将来仏になったときに自分の世界を極楽と名付けて、その極楽にこういう者、こういう者があったら救いますと言って、四十八の誓願をたてました。
そして出家して宝蔵(字は判りません)と名乗るんです。
そのときに世自座王如来様の前で四十八の誓願をたてました。
将来貴方様のように如来になります。
そして浄土を極楽と名付けます、そして其のなかの一つに
「もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生菩提心を発して諸の功徳を修し至心に発願して我が国に生ぜんと欲せんに、寿終わる時に臨みて若し大衆の為に囲繞(イニョウ)せられて其の人の前に現ぜずんば正覚を取らじ」
囲繞(イニョウ)せられてというのは観音様もそうなんですよ、阿弥陀様の最高のお弟子さんなんです。
左に観音、右に勢至そのほかに諸の菩薩がずーっと付いてるんです。
極楽へ往生を願う者があるのに迎えに行けなかったら正覚を取らない。
仏には成らない、必ず迎えに行くと言ってるんです。
ですから必ずお迎えに来て下さるんです。
『阿弥陀様の誓願』
極楽はまだ我々は見たことがないんですから、何方かが道案内をしてくれなければ極楽へ行くことが出来ないわけです。
ところが阿弥陀様がご自身から迎えに行くと言ってるんです。こういうお誓いが阿弥陀様の誓願のなかに入ってるんです。だから間違いなくお迎えに来て下さるんです。
これが四十八願の中の第19番に入ってるんです。
「仏、阿難及び違提希(いだいけ)に告げ給わく」
違提希という国王の夫人がいらっしゃいまして、この方は非情に信仰が深かった方で、お釈迦様の説法を随分聞いてらっしゃいます。
「下品上生の者とは或いは衆生有りて諸の悪業を作る」極楽へ往生するのには上中下という段階があります。
上品上生から上品中生、上品下生
中品上生から中品中生、中品下生
下品上生から下品中生、下品下生
と、九とうりの往生する段階があるんです。
それは、その人の日頃の行い如何によって上品上生になるか、下品下生になるかということなんです。
下品下生というのはもう罪が重たくて地獄へ行くのが決まっている人をいうそうです。
病気になって苦しんでいると、そこにたまたま仏縁があって枕元で南無阿弥陀仏と唱えよと、阿弥陀様を心を念じて唱えたら阿弥陀様は必ずお迎えに来て下さるのですよ、極楽へ往生させて戴けるのですよということです。
枕経というのがありますね。
枕経はしないよりは、したほうがよろしいのですが、死んでからでは遅いんですね、まだ意識のあるうちに聞かせてあげるのがいいのです。
臨終の善智識というのがありまして、死ぬときになって導いてもらう人ですね。
昔は信仰の深い人は「私が死ぬときは和尚様、来て下さい」と約束をしたそうです。
信仰の深い善智識のある人は、お互いに死ぬときは枕元に来て枕経を唱えるように約束をしたそうです。
人が死ぬとき、もう息を引きとっていくという、せつないときに即座に法を説くということです
「方等経典(大乗経典)を誹謗せずといえども(誹らない)けど、此の如き愚人、多く衆悪を造りて慚愧有ること無し。命終らんと欲する時、善智識、為に大乗十二部経の首題の名字を讃ずるに遇えり」
このお経にはこういうことが説いてあって、こういうことがあり、とお経のことをずーっと説いてることお経に遇うことができたということです。
「是の如き諸経の名を聞くを以っての故に千劫の極重の悪業を除去す」
お経の名を聞くだけで、それだけの罪が消えてゆくんです。
「知者また教えて合掌叉手して南無阿弥陀仏と称せしむ」
合掌して南無阿弥陀仏と唱えよということです。
「仏名を称するが故に五十億劫生死の罪を除く」
お経を唱えることによって、五十億劫の罪、劫とは百六十キロ四方の真四角な石があって、百年に一度天人が天から降りてきてその羽衣で石をするするーっと擦っていくんです。
そうして磨り減って、石が無くなったのが、一劫だというのです。
それがお経を唱えることによって、五十億劫の罪が消えるというのです。
「若し我、仏を得たらんに、十方の衆生菩提心を発して諸の功徳を修し、至心に発願して我が国に生ぜんと欲せんに、寿終わる時に臨みて、若し大衆の為に囲繞(イニョウ)せられて其の人の前に現ぜずんば正覚を取らじ」
来迎往生というテーマですが
往生というのは行き生まれるということですが
極楽に生まれることを来迎往生というわけです
そして極楽に往生するときには必ず阿弥陀様がお迎えに来て下さるのですが、そのお迎えに来て下さるのを来迎というのです。
来たり迎えるということですね。
これが浄土門の大切な教学なんです。
この 「其の人の前に現ぜずんば」
というのは来迎するということですね
もし、極楽に往生する者があって、わしが迎えに行くことができないと、いうことがあれば自分は仏に成らんと。
阿弥陀様はご存知の方はいらっしゃると思うのですが、仏教は我々が皆、如来に成れるんですね修行次第で、信仰しだいでね。必ず仏様に成れるんです。
我々だけじゃなくて、犬でも猫でも虫もですよ。
霊魂は不滅なんですから 業が深いが為に畜生になったり魚になったり鳥になったりしてますが、我々の霊魂と変わらないんですよ。
とにかくまずは人間に成らないと法を聞く能力がありませんから、まず人間に成るということが大切です
人身受け難しというお話を以前にも書きましたが、人間に生まれるということは並大抵のチャンスでないと生まれることは出来ないんだというお話をしましたが、それくらい我々人間は生まれ難いんですよ。
救われるというのは人間か天上界、この二つしかないんです。下はまず人間に上がって来ないと救われないということになってます。
そこで阿弥陀様は仏教はキリスト教のようにはじめから完全無欠の神様というふうな教学じゃないんです。
仏教ではみんな修行をして段々と位が上に上がって行って声聞となり縁覚となり菩薩と成りそして如来に成るという教えなんです。
みんな仏に成れるんです、虫も仏に成れるんです。
お釈迦様もかつては自分も地獄へ落ちておったということを、お経に出てきますが、我々も況や地獄へ落ちておったに違いないと思うのです。
そこで改心してどれ位の時間がかかったか判りませんが、生まれたり死んだりしながら 今日今こうして兎に角ここまで来てるということです。
阿弥陀様がまだ如来になる以前に国王としてこの世に生まれてきたことがあるんです
お釈迦様も国王としてこの世に生まれましたが、阿弥陀如来もかつては国王として生まれてるんです。
何回も何回も生まれ変わってこの世に出てきてるんですが国王として生まれたことがあるんです。
そのときにたまたま世自在王如来という仏様がお釈迦様がお生まれになってたように お生まれになってたんです。
この仏様がこの世にお生まれになって説教をしてたんです。
阿弥陀如来様がまだ在家の方でした、国王でしたからね、その国王が世自在王如来様の説法をお聞きになって世自在王如来様のような仏に成らねばならんと言って誓いをたてたんです。
そして自分が将来仏になったときに自分の世界を極楽と名付けて、その極楽にこういう者、こういう者があったら救いますと言って、四十八の誓願をたてました。
そして出家して宝蔵(字は判りません)と名乗るんです。
そのときに世自座王如来様の前で四十八の誓願をたてました。
将来貴方様のように如来になります。
そして浄土を極楽と名付けます、そして其のなかの一つに
「もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生菩提心を発して諸の功徳を修し至心に発願して我が国に生ぜんと欲せんに、寿終わる時に臨みて若し大衆の為に囲繞(イニョウ)せられて其の人の前に現ぜずんば正覚を取らじ」
囲繞(イニョウ)せられてというのは観音様もそうなんですよ、阿弥陀様の最高のお弟子さんなんです。
左に観音、右に勢至そのほかに諸の菩薩がずーっと付いてるんです。
極楽へ往生を願う者があるのに迎えに行けなかったら正覚を取らない。
仏には成らない、必ず迎えに行くと言ってるんです。
ですから必ずお迎えに来て下さるんです。
『阿弥陀様の誓願』
極楽はまだ我々は見たことがないんですから、何方かが道案内をしてくれなければ極楽へ行くことが出来ないわけです。
ところが阿弥陀様がご自身から迎えに行くと言ってるんです。こういうお誓いが阿弥陀様の誓願のなかに入ってるんです。だから間違いなくお迎えに来て下さるんです。
これが四十八願の中の第19番に入ってるんです。
「仏、阿難及び違提希(いだいけ)に告げ給わく」
違提希という国王の夫人がいらっしゃいまして、この方は非情に信仰が深かった方で、お釈迦様の説法を随分聞いてらっしゃいます。
「下品上生の者とは或いは衆生有りて諸の悪業を作る」極楽へ往生するのには上中下という段階があります。
上品上生から上品中生、上品下生
中品上生から中品中生、中品下生
下品上生から下品中生、下品下生
と、九とうりの往生する段階があるんです。
それは、その人の日頃の行い如何によって上品上生になるか、下品下生になるかということなんです。
下品下生というのはもう罪が重たくて地獄へ行くのが決まっている人をいうそうです。
病気になって苦しんでいると、そこにたまたま仏縁があって枕元で南無阿弥陀仏と唱えよと、阿弥陀様を心を念じて唱えたら阿弥陀様は必ずお迎えに来て下さるのですよ、極楽へ往生させて戴けるのですよということです。
枕経というのがありますね。
枕経はしないよりは、したほうがよろしいのですが、死んでからでは遅いんですね、まだ意識のあるうちに聞かせてあげるのがいいのです。
臨終の善智識というのがありまして、死ぬときになって導いてもらう人ですね。
昔は信仰の深い人は「私が死ぬときは和尚様、来て下さい」と約束をしたそうです。
信仰の深い善智識のある人は、お互いに死ぬときは枕元に来て枕経を唱えるように約束をしたそうです。
人が死ぬとき、もう息を引きとっていくという、せつないときに即座に法を説くということです
「方等経典(大乗経典)を誹謗せずといえども(誹らない)けど、此の如き愚人、多く衆悪を造りて慚愧有ること無し。命終らんと欲する時、善智識、為に大乗十二部経の首題の名字を讃ずるに遇えり」
このお経にはこういうことが説いてあって、こういうことがあり、とお経のことをずーっと説いてることお経に遇うことができたということです。
「是の如き諸経の名を聞くを以っての故に千劫の極重の悪業を除去す」
お経の名を聞くだけで、それだけの罪が消えてゆくんです。
「知者また教えて合掌叉手して南無阿弥陀仏と称せしむ」
合掌して南無阿弥陀仏と唱えよということです。
「仏名を称するが故に五十億劫生死の罪を除く」
お経を唱えることによって、五十億劫の罪、劫とは百六十キロ四方の真四角な石があって、百年に一度天人が天から降りてきてその羽衣で石をするするーっと擦っていくんです。
そうして磨り減って、石が無くなったのが、一劫だというのです。
それがお経を唱えることによって、五十億劫の罪が消えるというのです。
作品名:和尚さんの法話 「来迎往生」 作家名:みわ