和尚さんの法話 「来迎往生」
そして最後に如来に成る。
ですから我々が如来に成るのに、三祇百劫の修行を積まんと成れないんですね。
祇というのは無間という意味で、三つの無間とはおかしいじゃないかと思いますが、この辺で一無限、この辺で一無限というのが決まるんでしょうね、分かりませんけれども。
で、百劫というんですが、一劫という時間は、四十里(百六十キロ)四方の長さの真四角な石があると仮定するんですね、そして、百年に一度天人が天から降りてきて、この石の上をすーっと羽衣で摩って、また百年たって降りてきて摩ると、それを繰り返して、そしてその石が摩り減ってしまう。
その時間が一劫だというのです。
もう一つの例えは、やはり四十里四方の大きな四角い蔵があると仮定して、その蔵の中に芥子粒がいっぱい詰まってる。
そして百年に一粒づつその芥子粒を出していく。
そしてその蔵の中の芥子粒が全部空っぽになると、それが一劫だというのです。
ですから百劫という時間は長いですね。
そして更に無間という時間は当に無間ですわね。
それだけの修行をして釈迦如来と成り、阿弥陀如来と成り、薬師如来と成る。
如来様に成ったお方は、我々と同じ凡夫の時代もあったに違いない、その時代から或る時代に発心して三祇百劫の時間をかけて、そして修行をして如来に成られたんですね。
だから仏さんと、簡単に仏さんと我々は思うけど、それだけの修行を過去に積んであるわけなんですね。
その阿弥陀如来が、まだ仏に成らん先に菩薩の頃ですね、それもこの世に生まれたときは国王に生まれたんです。
ですから、仏さんというのは、次から次から無数の仏さんが、この世へ出てきてはあの世へ帰り、また次の仏さんがこの世へ出てきて、あの世へ帰りと、それを繰り返してる宗教なんですね佛教というのは。
佛教というのは、お釈迦さん一人と違うわけです。
過去に無数の仏さんが有り、未来にも無数の仏さんが出てくる。
未来の次の仏さんというのは、皆さんもご存知の弥勒という方です。
弥勒菩薩が次にこの世へ出てきて仏と成るお方なんです。
お釈迦様のお弟子さんなんですね。
お経の中にもよく弥勒菩薩の名前が出てきますね。
そして、お釈迦さんの佛教も廃れて、廃れるということはもう誰も信じなくなってしまうということですね。
時代がますます悪くなっていくわけですね、そしてこれから五十六億七千万年後、佛教の阿曽祇とか、劫とかいう時間と比べると、この五十六億七千万年という時間はわりと短い時間ですが、其の時の未来に弥勒菩薩が、この世へ生まれてきて、そして最後の修行を積んで、お釈迦様のように仏と成られて、新たに佛教を広めていく。
そして、また次の仏さんが出てきてと、佛教は永遠の過去から永遠の未来へかけてずーっと、続いてる宗教なんです。
この世で、教祖さんがお一人出てきて死んだら終わりというような宗教じゃないんですね。
そういうことで、その阿弥陀様が何遍もこの世へ生まれ変わってきてますわね、それで或る国王に生まれてきたことがあって、然し修行は過去世にも積んであるので心の中の菩薩の位についたんだけれども、姿形は国王なんですね。
『四十八願の誓をたてる』
その頃に、世自在王如来という如来様がこの世へお出ましになってて、お釈迦様がこの世にお出ましになったように、世自在王如来という仏様が、阿弥陀様が国王としてこの世に生まれた時代にお出ましになって、そしてお釈迦様のように説法をして、その説法を国王が聞いて、国王の位を捨てて、世自在王如来様の弟子になるわけです。
其の時に、世自在王如来の前で誓いを立てるんです。
私は将来、必ず貴方様のように如来に成ります。
如来に成って、そして自分の国を極楽という国を作ります。
其の国に、こういう条件の者は救いとります。
と、その条件を四十八願の誓をたてるんです。
そういう約束を世自在王如来様としたわけです。
其のときに、来迎ということを言うわけですが、極楽はこういうふうに、こういうふに作りますと、そしてこういう条件に叶った者は極楽へ引き取りますと言うて願をたてたんですが、その中に、私は仏と成って、極楽という国を作ったときに名前を阿弥陀如来と言うんだと、その阿弥陀如来の名前を南無阿弥陀仏と称えて、息を引き取るという者があったら私は必ず極楽へ往生させますと、そういう誓いを世自在王如来様の前で誓ったわけです。
その誓願に従って、それはお経にも自分は過去にはこういうことがあって、というようなことがお経に出てくるわけなんです。
それで、其の中に死ぬ直前に念仏を称える者があったら必ず救いとりますと言う誓いをたてた。
その誓いをここで述べてるんですね。
「設(たと)い我仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発(おこ)し、諸の功徳を修し、至心に発願して我が国に生ぜんと欲し、寿終わるに臨み、仮令(たとい)大衆の為に囲繞せられて、其の前に現ぜずんば正覚をと取らじ」 と。
現れなかったら私は極楽往生、成仏できませんと、だからそういう自分の立てた誓願をとうりの衆生があったら必ず救いますと、それが救えないという間は私は如来の位にはつきませんという願を立てたんですね。
ところが既に阿弥陀如来様は、その菩薩の位を卒業して如来の位についた。
如来に成ってから今日まで十劫という時間がたってるというのです。
一劫の時間の例えは先ほどの時間ですね。
十劫以前に阿弥陀様は菩薩の行を終って、阿弥陀如来と成ってる。
だからその誓願は十劫以来ずーっと、間違いなく続いてるわけです。
三、
上品上生とは、若し衆生有りて彼の国に生ぜんと願する者は、三種の心を発せば便ち往生す。
何等かを三となす。一には至誠心、二には深心、三には廻向発願心なり。
三心を具する者は必ず彼の国に生ず。
復(ま)た三種の衆生有りて当さに往生を得べし。
何等かを三となす。 一には慈心にして殺さず、諸の戒行を具す。
二には大乗方等経典を読誦し、三には六念を修行し、廻向発願して彼の国に生ぜんと願ず。
此の功徳を修して一日乃至七日すれば即ち往生する事を得べし。
彼の国に生ずる時此の人精進勇猛なるが故に、阿弥陀仏、観世音、無数の化仏、百千の比丘、声聞大衆、諸の諸天七宝の宮殿と與(とも)なり。
観世音菩薩は金剛台を取り、大勢至菩薩と与(とも)に行者の前に至る。
阿弥陀如来、大光明を放ちて行者の身を照らし給い、諸の菩薩と手を授けて迎接す。
観世音、大勢至、無数の菩薩と共に行者を讃歎して其の心を歓進す。 行者見己りて歓喜踊躍し、自身其の身を見れば金剛台に乗じて仏後に随従して弾指の頃の如くに彼の国に往生す。
― 観無量寿経 ―
「上品上生とは、若し衆生有りて彼の国に生ぜんと願する者は、三種の心を発せば便ち往生す。
何等かを三となす。一には至誠心、二には深心、三には廻向発願心なり。」
これを三心というのですが、
一の至誠心というのは、これ以上誠になれないという心ですね。
二の深心というのは、深い心ですね。
作品名:和尚さんの法話 「来迎往生」 作家名:みわ