和尚さんの法話 「来迎往生」
『極楽往生の条件』
来迎往生ということですが、阿弥陀如来様がご眷属をお連れになって迎えに来て下さる。
それを来たり迎える、来迎とこういうのです。
それは、例外なく極楽へ往生する人は必ず阿弥陀様が迎えに来て下さるのです。
ですから、来迎というのは必須の条件なんです。
来迎が無かったら、極楽往生できないんです。
これは、和尚さんのお爺様のお話ですが、お爺様は信仰の深い人で、病気で倒れまして、そして仮死状態になりました。
それで、後にも紹介をしますが、平素、元気なときに念仏を称えていくことも大事ですれども、一番大事なのは、これからもう死んでいくと、もう元へは戻らないんだという覚悟をめて、そうした時に死ぬまでの間念仏を称えるというのが一番大事なんです。
臨終の念仏ですね。
この臨終と言う言葉が、今息を引き取って今、死ぬんだというんじゃなくて、お医者さんはそういいますが、脈をとっていて、もう亡くなったなと。
ご臨終です、亡くなりましたと、亡くなったときのことを臨終といいますが、佛教のほうは、終わりに臨むと。
この終わりというのは、今息を引き取る、引き取ったというときが終わりなんです。
その終わりに臨むというんですから、これから死んでいくと、死がだんだんと近付いていくというときを、臨終と言うんです。
平素、念仏を称えておっても、死ぬときに念仏を称えないで眠ってしまうと、平素の念仏は功徳として持っていきますけれども、極楽往生の条件にはならないですね。
そこで、お爺様はそう言うことを良く知ってますので、病気になって、おトイレに行って、そして帰りしなにふらふらーっと、目眩がした。
ああ、自分はここで死ぬんだと思ったんですね。
それで念仏を称えて、称えながら倒れたんです。
で、肉体は仮死状態になっているので、お医者さんを呼んで脈をとっても、止まってるんですけれども、本人は霊魂として、肉体の中で意識がある。
そこでその肉体の中で霊魂は、一所懸命に念仏を称えてたんです。
そうしましたら、自分は極楽往生できるんなら必ず阿弥陀様がお迎えに来て下さるということを信じてますから、一所懸命に念仏を称えたんですね。
一、
舎利弗、若し善男子、善女人有りて阿弥陀仏を説くを聞きて名号を執持する事、若しは一日若しは二日、若しは三日、若しは四日、若しは五日、若しは六日、若しは七日一心不乱なれば、其の人命終の時に臨んで阿弥陀仏、諸の聖衆と与(と)もに現じて其の前に在(ましま)さん。 此の人終る時、心顛倒せずして即ち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得。 舎利弗、我是の利を見るが故に此の言を説く。 若し衆生ありて是の説を聞かん者は当に発願して彼の国に生ずべし。
― 阿弥陀経 ―
名号を執持する事、若しは一日若しは二日、若しは三日、若しは四日、若しは五日、若しは六日、若しは七日、というこの日数が、臨終です。
まだ死んでいないんですね、ですから命のある限り称えるということですね。
死んだら、あの世ですのでね。
この世に生きてるときでないといかん、その生きてるときにお念仏を称える、息を引き取るときにお念仏を称えるということが大事なんです。
これも以前にお話したかと思いますが、和尚さんのお父様は、平素は念仏を勤めておったけど、病気になって寝床へ入る生活になって、ぴたっと、念仏が止まってしまったんです。
平素は和尚さんも子供心に感心するほど念仏を称えていたそうです。
和尚さんの子供の時分は火鉢でしたから、外からお父さんが帰ってきて、火鉢のふちへ手をやって、ナンマンダブ、ナンマンダブと、風呂へ入ったら風呂の中で、ナンマンダブ、ナンマンダブというのが聞こえてくるんですね、凄いなあと思ってたんですね。
ところが歳をとって、病気になって寝床へ入ると、念仏が止まってしまった。
それで或るときに、お父さんに極楽を信じられますかと聞いてみますと、いや、半信半疑やなと、言うたそうです。
信仰というのは、半信半疑じゃだめで、百パーセント認めてなければ信仰とは言いませんからね。
そのときになって、お父さんは信仰を持ってなかったんだなと思ったんですね。
今、これから息を引き取るというときが、一番大事なんです。
仮に、そんなことは有り得ないんですけれども、仮に平素念仏を勤めないで、ところが死ぬのが近付いて来てから念仏を称えだしたと、死ぬまで念仏を称えだしたということはちょっと、有り得ないと思うんですが、平素念仏を称えても、お父さんのように念仏が止まってしまうのに、平素勤めてなかったということは信仰が無かった。
死ぬ病気になってから念仏を称えたという人は、よっぽど仏縁の深い人じゃなければそういうことは無いですね。
だから平素から念仏を称えておらんと、臨終には念仏は出ないですね。
平生即臨終という時宗の上人の言葉があるんですが、今生きてるときがもう臨終なんだと、臨終は何時来るか分からんから常に臨終だという教えなんですね。
だから今が臨終だと思うから絶えず念仏を称えてると。
そうすると急に急死するようなことが起こっても、臨終の念仏になって極楽往生の条件になるということですね。
和尚さんの宗派は時宗というんですが、時宗というのは、臨終命終のときを考える宗派という意味の宗派なんです。
そういうことで、死んでいくときのお念仏が一番大事やということです。
それなら平素称えなくても、死ぬときに称えたらいいんだと理屈を言うんですが、それがなかなかそういかないんですよね。
『我々も如来に成れる』
二、
設(たと)い我仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発(おこ)し、諸の功徳を修し、至心に発願して我が国に生ぜんと欲し、寿終わるに臨み、仮令(たとい)大衆の為に囲繞せられて、其の前に現ぜずんば正覚をと取らじ。
― 阿弥陀経 ―
これも阿弥陀経の一説なんですけれども、これは阿弥陀様のご誓願なんですね、我々に誓ってくれたんです。
それは何時誓われたかというと、阿弥陀様がまだ如来と成らないとき、佛教では、声聞、縁覚、菩薩、仏とだんだん修行を積んで位が上っていき、最後に如来と成るんですね。
其の時間は、もう無間に近い長い時間、繰り返すわけなんです。
三祇百劫(さんぎひゃっこう)という時間ですが、我々が発心して、そして生まれても死んでも絶えず、あの世へ行っても、この世へ来ても仏道の修行をして、そして最後に如来に成る。
我々も如来に成れるんですね、努力さえすれば。
お釈迦様も阿弥陀様も皆そういうふうに繰り返して如来様に成る。
ところがこの三祇百劫というのはどれだけの時間かというと、この祇というのは、阿曽祇という略語なんですね、これはインドの言葉です。
阿曽祇というのは無間と言う意味で、三祇というと、三無限ということですね。
三無限の時間と、百劫という時間をかけて、死んでも生まれても、死んでも生まれてもと、繰り返して修行をしていく。
来迎往生ということですが、阿弥陀如来様がご眷属をお連れになって迎えに来て下さる。
それを来たり迎える、来迎とこういうのです。
それは、例外なく極楽へ往生する人は必ず阿弥陀様が迎えに来て下さるのです。
ですから、来迎というのは必須の条件なんです。
来迎が無かったら、極楽往生できないんです。
これは、和尚さんのお爺様のお話ですが、お爺様は信仰の深い人で、病気で倒れまして、そして仮死状態になりました。
それで、後にも紹介をしますが、平素、元気なときに念仏を称えていくことも大事ですれども、一番大事なのは、これからもう死んでいくと、もう元へは戻らないんだという覚悟をめて、そうした時に死ぬまでの間念仏を称えるというのが一番大事なんです。
臨終の念仏ですね。
この臨終と言う言葉が、今息を引き取って今、死ぬんだというんじゃなくて、お医者さんはそういいますが、脈をとっていて、もう亡くなったなと。
ご臨終です、亡くなりましたと、亡くなったときのことを臨終といいますが、佛教のほうは、終わりに臨むと。
この終わりというのは、今息を引き取る、引き取ったというときが終わりなんです。
その終わりに臨むというんですから、これから死んでいくと、死がだんだんと近付いていくというときを、臨終と言うんです。
平素、念仏を称えておっても、死ぬときに念仏を称えないで眠ってしまうと、平素の念仏は功徳として持っていきますけれども、極楽往生の条件にはならないですね。
そこで、お爺様はそう言うことを良く知ってますので、病気になって、おトイレに行って、そして帰りしなにふらふらーっと、目眩がした。
ああ、自分はここで死ぬんだと思ったんですね。
それで念仏を称えて、称えながら倒れたんです。
で、肉体は仮死状態になっているので、お医者さんを呼んで脈をとっても、止まってるんですけれども、本人は霊魂として、肉体の中で意識がある。
そこでその肉体の中で霊魂は、一所懸命に念仏を称えてたんです。
そうしましたら、自分は極楽往生できるんなら必ず阿弥陀様がお迎えに来て下さるということを信じてますから、一所懸命に念仏を称えたんですね。
一、
舎利弗、若し善男子、善女人有りて阿弥陀仏を説くを聞きて名号を執持する事、若しは一日若しは二日、若しは三日、若しは四日、若しは五日、若しは六日、若しは七日一心不乱なれば、其の人命終の時に臨んで阿弥陀仏、諸の聖衆と与(と)もに現じて其の前に在(ましま)さん。 此の人終る時、心顛倒せずして即ち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得。 舎利弗、我是の利を見るが故に此の言を説く。 若し衆生ありて是の説を聞かん者は当に発願して彼の国に生ずべし。
― 阿弥陀経 ―
名号を執持する事、若しは一日若しは二日、若しは三日、若しは四日、若しは五日、若しは六日、若しは七日、というこの日数が、臨終です。
まだ死んでいないんですね、ですから命のある限り称えるということですね。
死んだら、あの世ですのでね。
この世に生きてるときでないといかん、その生きてるときにお念仏を称える、息を引き取るときにお念仏を称えるということが大事なんです。
これも以前にお話したかと思いますが、和尚さんのお父様は、平素は念仏を勤めておったけど、病気になって寝床へ入る生活になって、ぴたっと、念仏が止まってしまったんです。
平素は和尚さんも子供心に感心するほど念仏を称えていたそうです。
和尚さんの子供の時分は火鉢でしたから、外からお父さんが帰ってきて、火鉢のふちへ手をやって、ナンマンダブ、ナンマンダブと、風呂へ入ったら風呂の中で、ナンマンダブ、ナンマンダブというのが聞こえてくるんですね、凄いなあと思ってたんですね。
ところが歳をとって、病気になって寝床へ入ると、念仏が止まってしまった。
それで或るときに、お父さんに極楽を信じられますかと聞いてみますと、いや、半信半疑やなと、言うたそうです。
信仰というのは、半信半疑じゃだめで、百パーセント認めてなければ信仰とは言いませんからね。
そのときになって、お父さんは信仰を持ってなかったんだなと思ったんですね。
今、これから息を引き取るというときが、一番大事なんです。
仮に、そんなことは有り得ないんですけれども、仮に平素念仏を勤めないで、ところが死ぬのが近付いて来てから念仏を称えだしたと、死ぬまで念仏を称えだしたということはちょっと、有り得ないと思うんですが、平素念仏を称えても、お父さんのように念仏が止まってしまうのに、平素勤めてなかったということは信仰が無かった。
死ぬ病気になってから念仏を称えたという人は、よっぽど仏縁の深い人じゃなければそういうことは無いですね。
だから平素から念仏を称えておらんと、臨終には念仏は出ないですね。
平生即臨終という時宗の上人の言葉があるんですが、今生きてるときがもう臨終なんだと、臨終は何時来るか分からんから常に臨終だという教えなんですね。
だから今が臨終だと思うから絶えず念仏を称えてると。
そうすると急に急死するようなことが起こっても、臨終の念仏になって極楽往生の条件になるということですね。
和尚さんの宗派は時宗というんですが、時宗というのは、臨終命終のときを考える宗派という意味の宗派なんです。
そういうことで、死んでいくときのお念仏が一番大事やということです。
それなら平素称えなくても、死ぬときに称えたらいいんだと理屈を言うんですが、それがなかなかそういかないんですよね。
『我々も如来に成れる』
二、
設(たと)い我仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発(おこ)し、諸の功徳を修し、至心に発願して我が国に生ぜんと欲し、寿終わるに臨み、仮令(たとい)大衆の為に囲繞せられて、其の前に現ぜずんば正覚をと取らじ。
― 阿弥陀経 ―
これも阿弥陀経の一説なんですけれども、これは阿弥陀様のご誓願なんですね、我々に誓ってくれたんです。
それは何時誓われたかというと、阿弥陀様がまだ如来と成らないとき、佛教では、声聞、縁覚、菩薩、仏とだんだん修行を積んで位が上っていき、最後に如来と成るんですね。
其の時間は、もう無間に近い長い時間、繰り返すわけなんです。
三祇百劫(さんぎひゃっこう)という時間ですが、我々が発心して、そして生まれても死んでも絶えず、あの世へ行っても、この世へ来ても仏道の修行をして、そして最後に如来に成る。
我々も如来に成れるんですね、努力さえすれば。
お釈迦様も阿弥陀様も皆そういうふうに繰り返して如来様に成る。
ところがこの三祇百劫というのはどれだけの時間かというと、この祇というのは、阿曽祇という略語なんですね、これはインドの言葉です。
阿曽祇というのは無間と言う意味で、三祇というと、三無限ということですね。
三無限の時間と、百劫という時間をかけて、死んでも生まれても、死んでも生まれてもと、繰り返して修行をしていく。
作品名:和尚さんの法話 「来迎往生」 作家名:みわ