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今日、見上げた空~別離は季節の終わりのように~

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 それでも、女というのは浅はかな生きものだ。私はなかなか踏ん切りがつかなかった。ここであっさりと彼の思い通りに別れてあげたら、自分が本当にこの一年間、ただ卑怯な男に利用されただけだと認めるように思えてならなかったからだ。今から思えば、単なる馬鹿げた女の意地、または、そんなつまらない男へのこれまたつまらない未練だとも判る。でも、突然の彼の裏切りに何が何だか判らなくなっている私には、自分の置かれている事態は少しも見えていなかった。
 いや、多分、彼は裏切ったわけでもない。ただ、最初から、私が本気だっただけで、彼にとっては〝恋〟ですらなかったのだろう。だから、裏切っただなんて騒ぎ立てる私の方がおかしかったのだ。彼の妻の妊娠を知ってから一ヶ月間というもの、私は彼からの電話やメールにも頑なに返事をしなかった。
 二週間が経った頃、女友達から電話がきた。私は泣きながら、すべてを打ち明けた。すぐに電話は切れ、一時間後、一人暮らしのマンションのインターフォンが鳴った。
 私が出てみると、今し方、電話で話したばかりの友達だった。彼女は中学時代からの親友である。いつもどんなことでも相談し、打ち明け合ってきた。だが、流石に愁と付き合っていることは話せず、秘密にしていたのだ。
 彼女は激怒していた。愁に対してはむろん、そんな馬鹿げた真似をしてしまった私にも。ドアを開けたなり、私は彼女に盛大に平手ではたかれた。しばらく唖然としていた私を見ながら、彼女は泣いていた。十年以上も親友でいた彼女があたかも自分のことのように大声を上げてなきじゃくる姿を見て、私は初めて気づいた。
 自分がどれだけ愚かであったかを。愁をこの世でただ一人の男だと信じ込んでいて、たとえ世界中の誰を不幸にしても、彼がいればそれで良いと思ったこともあった。けれど、実は不実な男に良いように利用し尽くされて、結局、世界でいちばん不幸になったのは愚かな自分だった。
-バカだよ、里菜は、本当にバカな子。
 泣き続ける彼女を抱きしめ、私もまた声を限りに泣いた。隣に住む五十代の主婦が怪訝な表情をして私たちの前を通り過ぎるまで、私たちはずっと戸を開けたままの状態で泣き続けていた。


 私が彼に別離を告げにいくと言うと、親友の美千恵は初め言った。
-一緒についていくわ。
 私は笑って首を振った。
-いいよ、小学生じゃあるまいし、自分の過ちのケリくらい自分でつけるから。
 そう、この一年と三ヶ月、自分が犯してきた愚かな過ちと向き合うのは自分自身でなければならない。
 片を付けるのも自分一人でやらなければ、愁との恋-それが恋と呼べるものであれば、だが-のピリオドは打てない。一秒前までの世間知らずだった私にさよならして、また、新しく生き直すためには、どうしても必要な儀式なのだ。
 美千恵は私の眼を見ながら、頷いた。
-判った。じゃあ、私はここで待ってるから。里菜を信じて待ってるから。ちゃんとケリをつけてくるんだよ。
 私も彼女の瞳を見つめ返し、しっかりと頷き返した。
-行ってらっしゃい。
 友の言葉に背を押されるように、私は歩き出した。



あろうことか、愁が最後の待ち合わせ場所に指定したのは、私たちがよく密会に利用した小さなラブホテルだった。幸か不幸か、そのホテルは駅裏の細い路地に面しているので、昼間でも付近は人通りがない。それがまた人目を忍ぶカップルにはもってこいともいえる。
 愁はホテルの建物の入り口に立っていた。
「もう、終わりなのね」
「うん」
 ここで終われば、愁との想い出も少しはマシなままで終えられたのかもしれない。しかし、そうはいかなかった。いかにもその類のホテルらしく、広く取った駐車場への入り口には、色褪せたビニールの目隠しカーテンが垂れ下がっている。
 私はその時、何故、彼が単に別れを告げるためだけのために、ホテルを指定したのか理解できないでいた。が、私の姿を見るなり、〝とにかく中に入って落ち着いて話そう〟と肩を抱こうとした彼の行為を見て、その意図を悟った。
「バカにしないで」
 私は肩に馴れ馴れしく回された彼の手を汚いもののように振り払う。刹那、見上げた私の瞳に映じたホテルは、何とも安っぽく、けばけばしく塗られた外装が下品に悪目立ちして見えた。今まで、この品のない淫猥な建物が何か高級ホテルのように見えていたのだから、私も相当にイカレていたのかもしれない。
「つれないことを言うなよ。せめて楽しかった俺たちの最後の想い出にここで過ごそうじゃないか」
 つまり、そういうことなのか。私は欠片ほど残っていた彼への情があとかたなく消え失せるのを感じていた。
愁は最後の最後まで狡く、救いようのない自己中心的な男だった。
 こんな男のために、私は一年三ヶ月を無駄に過ごしたのか。
 最後の最後に感じるのは喪失感でもなく、哀しみでもなく、ひたすら無力感ばかりだった。
「あなたにとって、この一年、私はさぞ都合の良い女だったでしょうね」
 それが、私から彼への最後の台詞となった。
 私はもう何を言う気力もなく、ゆっくりと背を向けた。
 不思議と涙はこぼれなかった。ただ、果てのない空しさだけが去来していた。
 私の脳裏に彼と初めて出逢った日の空がありありと蘇る。更に記憶は巻き戻され、彼と過ごした一年三ヶ月という日々がゆっくりとスローモーシションで流れていった。  
 彼と初めて結ばれた日に見た雨上がりの風景はキラキラと輝いて、紫陽花のエメラルドグリーンの葉のうえの雫が永遠の愛を誓うダイヤモンドのように見えた。
 彼のことを好きで堪らなかった頃-付き合って初めて迎えた秋のデートでは、道端に揺れる秋桜の可憐ささえ愛おしかった。そして、冬、初めてのクリスマス。イブは二人だけで、このホテルで過ごした。彼に情熱的に求められながら、彼に愛されているのは奥さんではなく、この私なのだとひそかな優越感に浸ったのではなかったのか。
 年が明けて二人だけで彼の車で少し遠出して、有名な神社にお参りした。隣に並ぶ彼と神さまに向かって手を合わせながら、彼の赤ちゃんを産んであげられるのは私なのかもしれないと愚かで独りよがりな空想を抱いた。
 今年の早春、彼と艶やかに色づいた深紅の椿を眺めて、まさか今年早々に私たちの恋がこの椿のように儚く散ってしまうだなんて想像だにしなかった、あの頃。
 私は何て馬鹿で、世間知らずで、優しさの欠片もない女だったのだろう。
 彼に愛されているのは私なのだと信じ込んでいたのに、今、彼はこうして奥さんの許に戻っていく。
 私は空を見上げた。
 こんなよく晴れた空を見ると、あの日を思い出す。私が愁と出逢った初めての日。
 あの日もこんな風に蒼空が果てなくどこまでも広がっていた。もっとも、愁と出逢ったのは今のように初秋ではなく、初夏だったけれど。マンションとは名ばかりのコーポラスには玄関前に猫の額ほどの庭がある。大家さんが丹精している額紫陽花が盛りと咲いていた。
 額紫陽花は不思議な花だ。間違いなく紫陽花なのに、よく知られる代表的なものとは形がまったく違う。それでも、紫陽花は紫陽花、しかも、額紫陽花は額紫陽花としてしか咲けないし存在できない。