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今日、見上げた空~別離は季節の終わりのように~

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私は愁を見つめた。彼もまた私を見返す。
 更にゆるりと視線を移すと、はるかに見上げたその先には九月の空があった。
 「もう、終わりなのね」
 ため息のような呟きがこぼれ落ち、初秋の空に散ってゆく。吐息はしばらくまだ私たちの周囲を漂っているようだった。
 「うん」
 愁の声もまた聞き取れないほど低く儚かった。彼はけして〝別離〟という言葉を使わなかった。私が彼に一方的に別離を告げてからも、こうして、いよいよ私たちが別れるこの瞬間までも。
 それは、まるで、ひとたび別離の言葉を口にしてしまえば、私たちの別れが本当になってしまうのを恐れるかのようでもあった。けれど、私たちの別離はもう、止めることはできない。
 一ヶ月前、彼が口にしたあのひとことをけしてなかったことにはできないのと同じように。


 あの時、彼は私に言った。
-嫁さんが妊娠した。
 短い一言だったけれど、その言葉は私の呼吸すら止めるのではないかと思うほどの愕きを与えた。
-ヨメサンガ ニンシンシタ。
初めは彼の発した言葉は嵐に舞う木の葉のようにばらばらとなって、私の中で纏まってくれなかった。
 ややあって、漸く現実を認識した私はやっとの想いで返した。
―だって、あなた、言ってたじゃない。奥さんとはもう一年以上もベッドを共にしていないって。
 私の脳裏に次々と愁が私に囁き続けた台詞がレフレインした。
-妻が冷たい女なんだ。
-なかなか子どもができなくて、不妊治療してたんだけど、とうとう鬱になっちゃってさ。
―あの言葉は何だったの?
 私の問いに、彼はどこか虚ろな声音で応えた。
―あの言葉って?
―しらばくれないで、奥さんともう、やり直す気はないって私に言ったでしょ。
― -。
 途端に貝のように口を閉ざした彼を私は責めた。どれだけ泣いたか判らないほど泣いた。〝人でなし〟、〝嘘つき〟、〝女タラシ〟、思いつく限りの罵詈雑言を彼に投げ続けた。でも、彼はけして、泣き喚く私を止めようともしなかったし、なじろうともしなかった。
 ひたすら死刑宣告を待ち続けているような罪人のような彼を見ていると、本当に私たちは終わりなんだと感じた。
不倫をしている家庭持ちの男の妻が妊娠した。それをわざわざ私に告げる-その意味は、彼が遠回しに別れたがっている証拠だ。
 判っていたことではないか。私は自分に言い聞かせた。妻のいる既婚者と恋愛すれば、いずれはこういう結末が来ると。でも、私はどこかで儚い希望を抱いていたのかもしれない。彼がとうに愛を感じなくなった奥さんではなく、私を愛してくれることを夢見ていたのだ。
 ああ、何て浅はかな私。出逢ったその瞬間から私たちの間には別離が透けていたというのに、何故、そんな期待を抱いてしまったんだろう?
 愁と私が初めて出逢ったのは町の小さな喫茶店だった。コーヒーだけしか出さない純喫茶なんて、今日日、流行らないのに、年を取ったマスターが退職後に半ば趣味のように始めた店だ。
-紫陽花が好きなんで、店の名も〝オルテンシア〟。
 そう言って笑うマスターは昔はさぞ、たくさんの女性を泣かせたに違いない。そう思わせるロマンスグレーである。
 奥さんを三年前に亡くし、それまで二人でやっていたお店を一人でやるようになっていた。その喫茶店では毎月、一度、同好の士が集まって合唱クラブのようなものを開いていた。先生もいない、ただ、歌好きな面々が自然に集い、それぞれが順番に歌いたい歌を月ごとに決めて歌うようになり、いつしか今のように十数人もいる大所帯になったのだ。
 私はそこでピアノを弾いていた。
 元々、お店で大学時代にバイトでウエイトレスをしていた経緯があり、卒業後に就職浪人、フリーターとなった私にマスターが声をかけてくれたのだ。同好会〝うたごえ喫茶〟はひと月に一度。私が彼を見かけたのは、そこでピアノを弾くようになって2度目の月だった。
 童顔のせいもあったかもしれないけれど、彼はどう見ても20代前半くいらにしか見えなかった。だから、私も彼が結婚しているとは思わなかった。その頃、既に夫婦仲が冷え切っていたという彼は、そのときも結婚指輪をしていなかった。そのことも私が彼を独身だと思い込んだ原因だったのかもしれない。
 私はひとめで恋に落ちた。そんなことを言えば、バカだと嗤われるかもしれない。でも、恋に落ちるのに、ちゃんとした理由が要るだろうか? 強いて言えば、彼の澄んだまなざしに魅せられたのかもしれない。そう、彼と出会った日のように広がっていた六月の空のように限りなく澄み渡ったまなざしに惹かれた。
 それまで私は自分が極めて常識人だと思ってきた。だから、不倫という言葉は知っていても、どこか他人事、遠い世界のような出来事にしか思えなかった。そんな私が彼を家庭持ちだと知っても、諦められなかった。
 彼に近付いたのは私の方だった。そして、ホテルに誘ったのも。大学時代に男の子と付き合ったことはあるけれど、男性経験はなく、彼が初めての男になった。
 今から思えば、まるで演歌の世界だった。
逢えばホテルに行き、身体を重ねる。彼に抱かれる度に、彼のことをどんどん好きになり、私にはこの男しかいないと思うようになる。その中、いつも当たり前のような顔をして彼の隣にいる奥さんが憎いと思うようになった。
 そんな時、鏡に映る自分の顔を見て、ショックを受けた。まるでホラー映画で昔、見た般若面のような女がそこにいたからだ。誰かをひたすら憎む表情は自分で見ていても、暗く怖ろしいものに見えた。
 それでも、彼との情事を止められないまま、一年が過ぎた。彼は結婚六年目、どう見ても20代だが、実は既に三十二歳になっていたのである。二年前までは子どもを熱望する奥さんにほだされた形で不妊治療を続けていたが、ある日突然、子どもを作るだけにする夫婦生活がいやになったのだという。
 もちろん、奥さんは承知するはずもない。夫婦の間は目に見えて険悪になっていった。私と彼が出会ったのは、そんな頃のことだったのだ。
 そんな彼が付き合い始めて一年後、突如として私に投げつけた彼の妻の妊娠という事実は到底、信じがたいものだった。
-なあ、俺たち、どうすれは゛良い?
 泣き疲れて最早、声も出なくなった私に、彼がポツリと言った。
-どうするって。
 私は言葉を失った。この期に及んで、私にそれを言わせるつもりなのだろうか。
 何という狡い男! この瞬間、私は今まで唯一無二の存在に思えていた彼が急に色褪せて見えてくるのを感じた。今、眼前にいるのは生活に疲れ切った、ただのくたびれた中年男。世間でいうオヤジサラリーマンにすぎなかった。
 私はまだ二十三歳なのに、どうして輝かしいその大切な季節をこんなつまらない男のために無為に費やしてしまったのだろう。その時、初めてほろ苦い後悔を噛みしめた。その味は私の苦手なちっとも甘くないブラックコーヒーにも似ていた。