和尚さんの法話 「往生極楽」
その後、お爺さんの話を聞きますと、一所懸命に念仏を称えてて自分が若し、極楽へ往生出来るのなら阿弥陀様が必ずお迎えに来てくださるんだと。
お経にそう説いてますね。
極楽へ往生するのに九品往生というのがありまして、九種類の往生の仕方があるんですね。
一番初めが上品上生、その次が上品中生、そして上品下生とあって、中品とあって、中品にも上生、中生、下生とあって、最後に下品があって、下品にも上生、中生、下生とあって、これで九品往生といって九種類あるわけです。
この九品往生のどの往生でも、阿弥陀様が自らお迎え下さるか、化身の阿弥陀様がお迎え下さるかの差は上中下によってありますけれども、兎に角阿弥陀様がお迎えに来て下さるのです。
そして極楽へ連れて行ってくださるわけです。
お迎え下さらないと我々は何処に極楽があるのか分かりませんからね、自分で行けるはずがないわけですから。
で、お爺さんは自分が極楽へ行けるんなら阿弥陀様がお迎えに来て下さると信じていますからね、一所懸命に念仏を称えておったんです。
ところが阿弥陀様はお見えにならない。
自分は極楽往生できないのかな、と思ったんですね。然しと思って、一所懸命になおも念仏を称えていましたら、そこへ一人の坊さんが現れてあなたは必ず極楽へ往生できます。
然しまだ寿命が残っています。
あなたが本当に亡くなったら阿弥陀様は必ず迎えにきて下さいます。
其のときには、私も共をしてまいります、とおっしゃったんです。
それからいくらか時がたって息を吹き返したんです。
そのことをお爺さんが、和尚さんにお話したわけです。
ですからお爺さんは必ず極楽へ往生できるんだということが証明されてるわけですね。
それから数ヶ月ほど生きていましたが、極楽へ往生する人は死後硬直しないんです。
身体が生きてるときと一緒なんです。
湯灌する人も言っていましたけど、生きてる人と同じで手足が動くので、なんとまあとびっくりしたそうです。
普通だと硬直しますので手足の骨を折って入れるそうですね、そうしないと御棺に納まらないそうですね。
お爺さんの場合は、生きてるときと同じ状態で柔らかかったそうです。
ですからお医者さんがどういおうと、全ての人が硬直するとは限らないのですね。
信心柔軟といって、身も心も柔らかい。柔軟になってるんです。
極楽へ往生するという人は、心が柔らかいということは身も柔らかい。
心が頑固だったり硬い人は身も硬いんですね。
と、いうことで極楽へ往生する人は硬くならない。
柔軟なんですね、それが極楽へ往生したという証拠ですね。
「即ち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得ん。舎利弗、我是の利を見るが故に此の言を説く。若し衆生有りて此の説くを聞かん者は、当に発願して彼の国に生ずべし。」
お釈迦様は、そういうことをちゃんと見てるんだ、極楽へ往生する人を見てるから分かるから、そのとうりを説くのですと。
この私の説いたことは実行して極楽往生を願いなさいと、お釈迦様がおっしゃってるわけです。
これは阿弥陀経の一節です。
次ぎは、浄土三部経という大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と、この三つを浄土三部経といいます。
その観無量寿経というお経の一節です。
二、
「上品下生とは亦因果を信じ、大乗を謗ぜず、無上道心を発(おこ)す。此の功徳を以って回向して極楽国土に生ぜんと願求す。行者命終らんと欲する時、阿弥陀仏及び観世音、大勢至諸の眷属(けんぞく)と与(とも)に金蓮華を持し、五百の化仏を化作して来たりて此の人を迎えたもう。五百の化仏一時に手を授けて讃(ほ)めて言く。「法子、汝今清浄にして無上道心を発(おこ)す。我来たりて汝を迎う」と。此の事を見る時、即ち自ら身を見れば金蓮華に座す。座し已(い)れば華合し、世尊の後に随いて即ち七宝池の中に往生することを得。」
― 観無量寿経 ―
因果を信じ、大乗を誹謗しないで自分も仏に成りましょうという気持ちを発すということですね。
皆、仏に成れるんですからね。皆仏性があるわけですから。
仏性とは、仏に成れる種を持ってるということです。
私は未来は必ず仏に成ります、成仏致します、とそういう心になるということです。
そしてどうぞこの功徳によって極楽へ往生させていただきたいという気持ちを持つわけです。
「行者命終らんと欲する時、」その人が、命終わるときに観世音、大勢至が阿弥陀様の両脇にいらっしゃって、その後に大勢の眷属様方がいらっしゃるわけです。
「阿弥陀仏及び観世音、大勢至諸の眷属(けんぞく)と与(とも)に金蓮華を持し、五百の化仏を化作して来たりて此の人を迎えたもう。」
蓮の華を持ってお迎えに来てくださるわけですね。
観音勢至の他に五百の諸仏が群集して迎えに来て下さるのです。
「法子、汝今清浄にして無上道心を発(おこ)す。我来たりて汝を迎う」と。
此の事を見る時、即ち自ら身を見れば金蓮華に座す。
座し已(い)れば華合し、世尊の後に随いて即ち七宝池の中に往生することを得。」
はっと、気が付いたら蓮の華に乗っている。
極楽には七つの宝で出来ている池があるんですね。
蓮の華へ乗ってきますのでね、その池へ生まれるわけです。
それが極楽往生というのです。
ここへ大勢の方々が迎えに来てくださるということですね。
三、
「仏、阿難及び韋提希に告げ給わく。「下品上生とは、或は衆生有りて諸の悪業を作る。方等経典を誹謗せずと雖も是の如きの愚人、多く衆悪を作りて慚愧有ること無し。命終らんと欲する時、善知識の大乗十二部経の名字を讃ずるに遭わん。是の如きの諸経の名を聞くを以ての故に千劫の極重の悪業を除去す。智者復た教えて合掌叉手して南無阿弥陀仏と称せしむ、仏名を称するが故に五十億劫の生死の罪を除く。
其の時彼の仏、即ち化仏の化観世音、化大勢至をつかわして行者の前に至りて讃じて言く。「善男子、汝仏名を称するが故に諸罪消滅せり。我来たりて汝を迎う」と。此の語を作し已るに行者即ち化仏の光明、其の室に遍満せるを見る。見已りて歓喜して即ち命終す。宝蓮華に乗じて化仏の後に随いて宝池の中に生ず。」
― 観無量寿経 ―
「下品上生とは、或は衆生有りて諸の悪業を作る。」
下品下生になるともう悪いことばっかりしている人ですね。
「方等経典を誹謗せずと雖も是の如きの愚人、多く衆悪を作りて慚愧有ること無し」
大乗経典を誹謗はしませんけれども、いろんな悪いことをしているのですね。
人を騙したりいろんな悪行をしている。
「命終らんと欲する時、」その人が、命終わるときは「善知識の大乗十二部経の名字を讃ずるに遭わん」
たまたまその人が死ぬときに、臨終の善知識といって、信仰の深い人を枕辺へ呼んで説法をしてもらうのです。
それが今は形だけになっていますが、枕経なんですね。
まだ意識のある間にお坊さんを呼んで説教をするのです。
昔は、もう死ぬというときにお医者さんを呼ぶよりもお坊さんを呼んだそうです。
作品名:和尚さんの法話 「往生極楽」 作家名:みわ