和尚さんの法話 「往生極楽」
その善知識が、「智者復た教えて合掌叉手して南無阿弥陀仏と称せしむ、仏名を称するが故に千劫の生死の罪を除く。」
阿弥陀経がある、観音経がある、このお経にはこういうことを説いてあると、説いて聞かせるのです。
そういうお経があるのかと、その死んでいく人が聞いただけで、お経の功徳によって千劫の生死の罪が消えるというのです。
一劫という時間は、以前にもお話していますが、四十里四方の大きな石があると仮定して、百年に一度天人が天から降りてきて、その石の上を羽衣で擦って天へ上がる。
また百年たって降りてきて上がると、それを繰り返して、その石が磨り減ってしまったら一劫だというのです。だから長いですよね。
一劫でもそれだけの時間なんですから。
ところが、ここでは千劫の間あっちへ生まれ、こっちへ生まれして転生ですね。
其の間にいろんな悪いことをしている。
人も殺したか分からないし人を騙したかもわからない、悪いことをいっぱいしていますね。
その長い間の罪が、お経を聞かせてもらうだけで消えるというのです。
お経を聞く間は心から信じて聞かないといけません。
その功徳で悪業を消して下さるのです。そして手を合わせて南無阿弥陀仏と称えなさいと教えるのですね、称えることによって五十億劫の罪を消していただけるというのです。
「其の時彼の仏、即ち化仏の化観世音、化大勢至をつかわして行者の前に至りて讃じて言く」
観音様の化仏、勢至様の化仏というのは、本当の仏様じゃなくて仮の観音様、仮の勢至様がお迎えに来てくださるのです。
代理の方ですけれども、お姿は観音様、勢至様と同じ姿をしているのです。
「善男子、汝仏名を称するが故に諸罪消滅せり。我来たりて汝を迎う」と。
お前は、阿弥陀仏の名を称えたから、今まで犯してきた罪は消してやる。
だから私はおまえを迎えにきたのであると。
極楽へは、罪があったら行けないのですよ、罪を消してから行くわけです。
「此の語を作し已るに行者即ち化仏の光明、其の室に遍満せるを見る。」
この行者というのは、その死んでいく人ですね。
そして部屋の中が金々満々に輝く。
仏様の光明が部屋いっぱいにみなぎっているのですね。
「見已りて歓喜して即ち命終す。宝蓮華に乗じて化仏の後に随いて宝池の中に生ず。」
蓮華に乗って仏様の後に隨って、極楽の池に往生していく。
これが下品上生の往生です。
「仏、阿難及び韋提希に告げて給わく。「下品下生とは、或は衆生有りて不善の業たる五逆十悪を作り手諸の不善を如きの愚人、悪業を以ての故に応さに悪道に堕して多劫を経歴して苦を受くること窮(きわま)り無からん。是の如きの愚人命終わる時に臨んで、善知識の安慰して為に妙法を説き、教えて仏を念ぜしむるに遭わん。此の人苦に逼(せま)られて仏を念ずるにいとま有らず。善友告げて曰く、『汝若し念ずる事能(あた)わずんば応さに無量寿仏と称すべし』是の如く至心に声をして絶えざらしめて十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するが故に念々の中に於いて八十億劫の生死の罪を除く。命終の時の金蓮華を見る猶し日輪の如くして其の人の前に住するを見る。一念の頃の如くに即ち極楽世界に往生する事を得。――」
― 観無量寿経 ―
下品下生は、一番最低の往生の仕方ですね。
上品上生が一番上で、下品下生が一番下になります。
「不善の業たる五逆十悪を作り手諸の不善を如きの愚人、」
もうこれ以上の罪は無いというほどの最悪の罪ですね。
人を殺して物をとるというようないろんな罪を犯した人です。
このままあの世へ行ったら畜生や餓鬼へ落ちて、長い間そこで苦しみを受けるわけです。「多劫」ですからそれだけの長い間苦しみを味わうわけです。
その人が死ぬときに枕辺へ善知識、お坊さんを呼んで法を聞かせてもらって、心の中に仏様のお姿を思い浮かべることを教えるのですね。
ところが病気が重いので、苦しくて心を静めて仏様を念じる事が出来ないのですね。
そこで善知識の人が、苦しくて思い浮かべることが出来ないのなら、南無阿弥陀仏と称えよと教えるのです。
そして、南無阿弥陀仏と十遍、息も絶え絶えながらも、お念仏を十遍称えたのです。
お念仏を称えるごとに過去八十億劫の生死の罪を消して下さるのです。
そして命終わるときに、金の蓮の華が、まるで太陽のようにぴかぴかと光って目の前に現れて、一瞬のうちに極楽へ往生するのです。
だからこんな罪の深い人が救われるのです。
今はテレビを見ていますといろんな罪の深い人が大勢いますが、そういう人はそのままあの世へ行ったら地獄へ行くのでしょうが、そういう人でもたまたま縁があって、死ぬときに枕元へ善知識を呼んでお説教を聞かせてもらって、南無阿弥陀仏と称えてそれを信じて称えたら、極楽へ往生できると教えて称えたら、その人は極楽へ往生できるのです。
浄土門はまことにありがたい容易く救われるという法門なのですよ。
難行苦行が要らんのです。極楽へいって、先輩の教えを受けて修行をしてだんだんと境地が上がっていって、そして仏に成る。と、いうのが浄土門の教えなんです。
往生するときには、必ず阿弥陀様がお迎えに来てくださるということになっているのです。
それは阿弥陀様が、四十八願という願をたててるのです。
こういう者があったら救うてやる、こういう者があったらと・・・四十八の願をたててるのです。
其の中に往生する者があれば私は必ず迎えに行くということを説いてあるのです。
だから上品、下品の差があって、菩薩化菩薩の差はあっても必ずお迎えに来てくださるのです。お迎えによって極楽へ往生するのです。
お迎えがなかったら我々は極楽が何処にあるのか知りませんからね。
自分の力で行くわけはないのです。
ですから、これから死んでいくというときに、そこが正念場ですから心顛倒せず、心錯乱せず、心失念せずと、臨終正念でないといけませんね。
こうしてお話を読めるということは正念なんです。
正念でなければ読めませんね。
だからその状態で死を迎えると、そしたら自分がもう死ぬのかなと、ちゃんと理解して南無阿弥陀仏と称えることが出来ますね。
本当の信仰を持っていなかったら病気になってしまったら、平素に称えてたってお念仏は出て来ません。
和尚さんのお父様は、普段にお念仏を称えていました。
寒い日に外から帰って火鉢にあたって、なんまんだぶ、なんまんだぶ。
お風呂に入ってるときにもお念仏を称えて、絶えず念仏を称えていましたが、病気になって床に入るようになると、お念仏はぴたっと出なくなってしまったそうです。
それである日にお父様に聞いてみたそうです。
「お父さん、極楽を信じられますか」と。すると、「半信半疑やなあ」と。
ところがお爺さんは、自分はもう死ぬんだな、と思ったときにお念仏を称えたのですからね。
だから今から死んでいくというときに念仏が出ないといかんのですから、その分別をしないといけないのですから顛倒、錯乱、失念していたらお念仏は出ませんわね。
作品名:和尚さんの法話 「往生極楽」 作家名:みわ