和尚さんの法話 「往生極楽」
『お念仏』
一、
「舎利弗、若し善男子善女人有りて、阿弥陀仏を説くを聞きて名号を執持する事、若しは一日若しは二日若しは三日、若しは四日、若しは五日、若しは六日、若しは七日一心不乱なれば、其の人命終る時、心顛倒せずして即ち阿弥陀仏、諸の聖衆と共に其の前に現在せん。此の人終る時、心顛倒せずして即ち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得ん。舎利弗、我是の利を見るが故に此の言を説く。若し衆生有りて此の説くを聞かん者は、当に発願して彼の国に生ずべし。」
― 仏説阿弥陀経 ―
ここにあります若し一日、二日、三日・・・七日とありますのは、これから死んでいく日を説いてあるんですね。
この極楽に往生するには、南無阿弥陀仏と、阿弥陀様のお名前を称えるということですね。
法然上人が、はじめは比叡山で、難行苦行の修行をしてたわけですね。
ところが、こんな難行苦行をしなければ救われない、と。
法然上人は自分のような凡夫はとてもじゃないが覚束ないと思ったんですね。
ましてや一般の学問のないような者は救われる道がないではないかと、いう疑問を持たれまして、何とかもっと容易く救われる道はないだろうかと思うて、比叡山にあるお経から論書から片っ端から読んだんですね。
そうしましたら、中国の唐の時代に善導大師という方がいらっしゃいますが、その方が中国で念仏を体制なさった方なんですね。
其の方の書いた書物が比叡山にあったわけなんです。
それを読んでみましたら、南無阿弥陀仏で救われるんだということを、いろいろと説いてあるわけなんです。
これなら自分でも救われる。
況や一般の人でも南無阿弥陀仏と称えたら救われるんだ、こんな簡単なことはないということで、比叡山を降りて黒谷へ入ってお念仏を広めたと、こういうことですね。
このお経は、大勢お弟子さんがいらっしゃいますが、その中の一人か二人選んで話してるわけですね。
この場合は舎利弗を呼んでお説教してますね。阿難、或は韋提希に次げ給わくというところもあるわけです。
これは舎利弗に言ってるわけなんですが、舎利弗はお釈迦さんの最高の弟子ですね。
お釈迦さんの弟子は何万というお弟子さんが居たんですが、その中でも1250人の阿羅漢といって、もう悟りを開いてしまってるわけです。
阿羅漢という位は、もうこの世へ生まれてこない。あの世でばっかり修行をしててこの世へは生まれてこない。
皆さんはどうですか、この世へ生まれることがいいことで、死ぬのはいいことではないと、誰でもそう思うのですが、この世へ生まれてくるということは、仏教ではあまり喜びとしないんですよ。
この世は迷いの世界なんですから、この世へきたらまら死ぬんですから。
だからこの世へ生まれてこなくなるためにはどうしたらいいかと。
輪廻転生といって、あの世には、地獄があり、餓鬼があり、畜生があり、修羅があり、それから人間界もあの世にあるわけです、それから天上界と、これは六道ですよね。
この六道を我々人間がこの世で、善い行いをしたり悪い行いをしたり、或は信仰があった、無かったと、それに相応しい所へあの世で行くんですよ。
その六道という世界は迷いの世界ですから、その六道へ生まれたら必ずこの世へ生まれてこなければならないのです。
この世へ生まれてきたら、またあの世へ生まれていく。
これを輪廻というんです。あの世へ生まれ、この世へ生まれと繰り返す。
仏教は、その輪廻からどうしたら抜けることができるかと。
迷ってる、つまり救われていない衆生は絶えずこの輪廻を繰り返すんです。
どうしたらその輪廻から脱することができるかということを説いたのが仏教の教えなんです。それがお経です。
そのお経にはたくさんのお経には、お釈迦さんがこうしたらいいんだ、こういうことをしたらいいんだと、お説きになってるんですけども、往生極楽は、阿弥陀様という方がいらっしゃって、その方が私の所へ来なさいと、それは私の名を称えたら私が迎えにいくと、阿弥陀様がお経の中に紹介してるんですよ、阿弥陀様がこういうことをおっしゃってるんだと。
だからそのとうりにすれば必ず救われるんだというのが浄土門の説き方になってるんです。
「舎利弗、若し善男子善女人有りて」
善男子善女というのは、信仰をする男女ということですね。
「阿弥陀仏を説くを聞きて」
阿弥陀仏というお方はこういうお方ですと聞いて、
「名号を執持する事、若しは一日若しは二日若しは三日、若しは四日、若しは五日、若しは六日、若しは七日一心不乱なれば、」
阿弥陀仏は名を称えなさいと、それが若しは一日・・・七日と、七日で切ってますが、これは我々が最早助からんというときを考えて、それが若しは一日と、人によって長い短いがございますので、一応七日で切ってますが、一心不乱に南無阿弥陀仏と称えるのです。
「其の人命終る時、心顛倒せずして即ち阿弥陀仏、諸の聖衆と共に」
極楽へ阿弥陀様によって救われた人が大勢いらっしゃる。
其の中に菩薩も大勢いらっしゃるわけです。
阿弥陀様の左側には観世音菩薩がお仕えになって、右側には勢至菩薩がお仕えになってる。
その下にはずーっと大勢の菩薩方が極楽にいらっしゃるわけです。
「其の前に現在せん。」
其の人の前にお迎えに来て下さるのです。
「此の人終る時、心顛倒せずして」
命が終わるときには、呆けてしまったりいろいろなことが起こるんですよね、顛倒、錯乱、失念になってしまったら、もう自分が分からんようになってしまって南無阿弥陀仏と称えることも忘れてしまう。
だから死ぬときに顛倒、錯乱、失念にならんようにと、まずそこからはじめんといかんということになりますね。
中国で念仏を体制なさった善導大師は、命終のときに臨んで心顛倒せず心錯乱せず心失
念せずと、つまり健康な精神状態ですね。
今我々は健康な状態ですよね。死ぬときにも同じようなこういう健康な状態で、自分は
今から死ぬんだと、お念仏を称えないといかんと、顛倒や錯乱失念してたら出ません
ね。
正念という言葉がございますね、正念場とよく使います。
一番大事なときに、ここが正念場だと、こういう使い方ですが、今これから死んでいくというときが、正念場なんですよ。
顛倒、錯乱、失念したらお念仏を忘れてしまいます。
だから善導大師は、臨終のときに臨んで心顛倒せず心錯乱せず心失念せずと祈ってるわけです。
そしたらこれから死んでいくというときにお念仏を称えるという正常な判断が出来ますね。
『九品往生』
和尚さんのお爺様のお話なんですが、或る夜お爺さんがおトイレに行って部屋へ戻るときに、ふらふらっと目眩が起こって倒れそうになったんです。
自分は病気やし、もうここで死ぬんだなあと思って、倒れながら心の中でお念仏を称えたそうです。
で、和尚さんのお父さんが起きてきて寝床へ移したそうです。
お爺さんの身体は死んだようになっていますが、肉体の中で心で一所懸命にお念仏を称えてたんですね。
一、
「舎利弗、若し善男子善女人有りて、阿弥陀仏を説くを聞きて名号を執持する事、若しは一日若しは二日若しは三日、若しは四日、若しは五日、若しは六日、若しは七日一心不乱なれば、其の人命終る時、心顛倒せずして即ち阿弥陀仏、諸の聖衆と共に其の前に現在せん。此の人終る時、心顛倒せずして即ち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得ん。舎利弗、我是の利を見るが故に此の言を説く。若し衆生有りて此の説くを聞かん者は、当に発願して彼の国に生ずべし。」
― 仏説阿弥陀経 ―
ここにあります若し一日、二日、三日・・・七日とありますのは、これから死んでいく日を説いてあるんですね。
この極楽に往生するには、南無阿弥陀仏と、阿弥陀様のお名前を称えるということですね。
法然上人が、はじめは比叡山で、難行苦行の修行をしてたわけですね。
ところが、こんな難行苦行をしなければ救われない、と。
法然上人は自分のような凡夫はとてもじゃないが覚束ないと思ったんですね。
ましてや一般の学問のないような者は救われる道がないではないかと、いう疑問を持たれまして、何とかもっと容易く救われる道はないだろうかと思うて、比叡山にあるお経から論書から片っ端から読んだんですね。
そうしましたら、中国の唐の時代に善導大師という方がいらっしゃいますが、その方が中国で念仏を体制なさった方なんですね。
其の方の書いた書物が比叡山にあったわけなんです。
それを読んでみましたら、南無阿弥陀仏で救われるんだということを、いろいろと説いてあるわけなんです。
これなら自分でも救われる。
況や一般の人でも南無阿弥陀仏と称えたら救われるんだ、こんな簡単なことはないということで、比叡山を降りて黒谷へ入ってお念仏を広めたと、こういうことですね。
このお経は、大勢お弟子さんがいらっしゃいますが、その中の一人か二人選んで話してるわけですね。
この場合は舎利弗を呼んでお説教してますね。阿難、或は韋提希に次げ給わくというところもあるわけです。
これは舎利弗に言ってるわけなんですが、舎利弗はお釈迦さんの最高の弟子ですね。
お釈迦さんの弟子は何万というお弟子さんが居たんですが、その中でも1250人の阿羅漢といって、もう悟りを開いてしまってるわけです。
阿羅漢という位は、もうこの世へ生まれてこない。あの世でばっかり修行をしててこの世へは生まれてこない。
皆さんはどうですか、この世へ生まれることがいいことで、死ぬのはいいことではないと、誰でもそう思うのですが、この世へ生まれてくるということは、仏教ではあまり喜びとしないんですよ。
この世は迷いの世界なんですから、この世へきたらまら死ぬんですから。
だからこの世へ生まれてこなくなるためにはどうしたらいいかと。
輪廻転生といって、あの世には、地獄があり、餓鬼があり、畜生があり、修羅があり、それから人間界もあの世にあるわけです、それから天上界と、これは六道ですよね。
この六道を我々人間がこの世で、善い行いをしたり悪い行いをしたり、或は信仰があった、無かったと、それに相応しい所へあの世で行くんですよ。
その六道という世界は迷いの世界ですから、その六道へ生まれたら必ずこの世へ生まれてこなければならないのです。
この世へ生まれてきたら、またあの世へ生まれていく。
これを輪廻というんです。あの世へ生まれ、この世へ生まれと繰り返す。
仏教は、その輪廻からどうしたら抜けることができるかと。
迷ってる、つまり救われていない衆生は絶えずこの輪廻を繰り返すんです。
どうしたらその輪廻から脱することができるかということを説いたのが仏教の教えなんです。それがお経です。
そのお経にはたくさんのお経には、お釈迦さんがこうしたらいいんだ、こういうことをしたらいいんだと、お説きになってるんですけども、往生極楽は、阿弥陀様という方がいらっしゃって、その方が私の所へ来なさいと、それは私の名を称えたら私が迎えにいくと、阿弥陀様がお経の中に紹介してるんですよ、阿弥陀様がこういうことをおっしゃってるんだと。
だからそのとうりにすれば必ず救われるんだというのが浄土門の説き方になってるんです。
「舎利弗、若し善男子善女人有りて」
善男子善女というのは、信仰をする男女ということですね。
「阿弥陀仏を説くを聞きて」
阿弥陀仏というお方はこういうお方ですと聞いて、
「名号を執持する事、若しは一日若しは二日若しは三日、若しは四日、若しは五日、若しは六日、若しは七日一心不乱なれば、」
阿弥陀仏は名を称えなさいと、それが若しは一日・・・七日と、七日で切ってますが、これは我々が最早助からんというときを考えて、それが若しは一日と、人によって長い短いがございますので、一応七日で切ってますが、一心不乱に南無阿弥陀仏と称えるのです。
「其の人命終る時、心顛倒せずして即ち阿弥陀仏、諸の聖衆と共に」
極楽へ阿弥陀様によって救われた人が大勢いらっしゃる。
其の中に菩薩も大勢いらっしゃるわけです。
阿弥陀様の左側には観世音菩薩がお仕えになって、右側には勢至菩薩がお仕えになってる。
その下にはずーっと大勢の菩薩方が極楽にいらっしゃるわけです。
「其の前に現在せん。」
其の人の前にお迎えに来て下さるのです。
「此の人終る時、心顛倒せずして」
命が終わるときには、呆けてしまったりいろいろなことが起こるんですよね、顛倒、錯乱、失念になってしまったら、もう自分が分からんようになってしまって南無阿弥陀仏と称えることも忘れてしまう。
だから死ぬときに顛倒、錯乱、失念にならんようにと、まずそこからはじめんといかんということになりますね。
中国で念仏を体制なさった善導大師は、命終のときに臨んで心顛倒せず心錯乱せず心失
念せずと、つまり健康な精神状態ですね。
今我々は健康な状態ですよね。死ぬときにも同じようなこういう健康な状態で、自分は
今から死ぬんだと、お念仏を称えないといかんと、顛倒や錯乱失念してたら出ません
ね。
正念という言葉がございますね、正念場とよく使います。
一番大事なときに、ここが正念場だと、こういう使い方ですが、今これから死んでいくというときが、正念場なんですよ。
顛倒、錯乱、失念したらお念仏を忘れてしまいます。
だから善導大師は、臨終のときに臨んで心顛倒せず心錯乱せず心失念せずと祈ってるわけです。
そしたらこれから死んでいくというときにお念仏を称えるという正常な判断が出来ますね。
『九品往生』
和尚さんのお爺様のお話なんですが、或る夜お爺さんがおトイレに行って部屋へ戻るときに、ふらふらっと目眩が起こって倒れそうになったんです。
自分は病気やし、もうここで死ぬんだなあと思って、倒れながら心の中でお念仏を称えたそうです。
で、和尚さんのお父さんが起きてきて寝床へ移したそうです。
お爺さんの身体は死んだようになっていますが、肉体の中で心で一所懸命にお念仏を称えてたんですね。
作品名:和尚さんの法話 「往生極楽」 作家名:みわ