和尚さんの法話 「平家物語の往生思想」
そして八巻の法華経と、善導大師の観経疎が四巻、法事讃が二巻、観念法門が一巻、往生礼賛が一巻、般舟讃が一巻、これで九巻になりますね。
しかしこういうものを読んでたんですね。
置いてあるということは、ただ並べていたわけじゃなくて、おそらくは勉強をしていたのでしょうね。
そして、如何にして極楽へ往生するかということを勉強したのですね。
法華経があるというのはですね、法華経を保つ者は死後、必ず極楽へ往生するという文章が、法華経の中にあるのです。
だからその当時、法華経を極楽往生のために信仰をするという風習があったようです。
今はもう西と東に全く分かれてしまってますけれども、どうも当時はそうだったようですね。
そういうふうに法華経を読みながら極楽へ往生をするということを求めていたのですね。
「蘭麝(らんじゃ)の匂いに引きかえて、香の煙ぞたちのぼる。」
蘭香、麝香というのは、宮中に居られたときには、いろんなそういういい匂いのする化粧品をお使いになっていたが、今はそれも使うことも出来ない。
それに引き換えて線香の匂いが煙とともに立ち昇る。
「――― 障子には諸経の要文共色紙に書いて所々に押されたり。」
障子を見れば、お経の、このところは大事にしないとけないという重要なところを色紙に書き抜いて、それを障子に貼ってあるのですね。そして折々に見ては勉強をしたのですね。
「其の中に大江定基法師が清涼山にして詠じたりけん、「笙哥遙聞孤雲上 聖衆来迎落日前」 とも書かれたり。」
この大江定基という人も仏門に入った人なんですね。
あの鴨長明という人が、ある書物を引っ越すごとに持っていったその書物の中に、寂心という在家の人だけれども、心は仏門に入っているという人物がいまして、極楽往生を願って、そして人にも極楽往生はこうして、こうだと、往生のことを書いて皆に読ませていたのです。
その書物の一冊を鴨長明が大事にして引っ越すごとに持っていたというのです。
その寂心という人に指示したことがあるのですね、この大江定基が。
そして中国へ行って、亡くなったそうです。
そこで読んだ歌が、、「笙哥遙聞孤雲上(しょうかはるかにきこゆこうんじょう) 聖衆来迎落日前(しょうじゅらいごうらくじつのまえ)」 と、こういう歌を読んだらしいと書いてあるそうです。
笙哥遙聞孤雲上とは、西の空に雲が浮いていて、その雲の上に天人が奏でる音が聞こえてきて、ご三尊が迎えに来る。
と、そうありたいと願ったのでしょうね。
そういう西方の来迎というのを願ったんですね。
「――― さて傍らを御覧ずれば、御寝所と覚しくて竹の御桁(さお)に麻の御衣、紙の御衾(ふすま)など懸けられたり。」
ふすまと、ありますが、昔は蚊帳も紙で作ったようですしね。布団のように紙の夜具などのことですね。
「さしも、本朝 ・ 漢土の妙なる類数を尽くして綾羅 ・ 錦繍の粧いもさながら夢となりにけり。」
宮中の生活を言っているわけですね。
日本の物もあれば中国から入ってきた物もあると。
綾羅 ・ 錦繍というのは立派な着物ですね。そういう立派な綺麗な衣装もさながら夢となってしまったと、いうことですね。
「公奉の公卿、殿上人も各見参らせ給いし事なれば、今のように覚えて皆袖をぞ絞られける。」
皆一緒についてきた人たちも現にこういう生活をしているわけですね。
それを過去のそういう生活を比較して涙してるということでございましょうね。
「さる程に上の上より濃き墨染の衣着けたる尼二人岩のかけ路を伝いつゝ下りわづらいてぞ見たりける。
(以上大原御幸より)
女院御庵室に入り給い、 「一念の窓の前には摂取の光明を期し、十念の柴の扉には聖衆の来迎をこそ待ちつるに、思いの外に御幸なりける不思議さよ。」とて泣く泣く御見参ありけり。 」
明けても暮れてもですね、一念の窓の前というのは、一遍のお念仏ということですね。
窓の方を見てただひたすらに南無阿弥陀仏と称えてご来迎を願った。
或いは柴の扉は家の外の戸ですね、そこから来迎して下さると。
十念称えたら庭から入ってくるだろうか、一念称えたら窓からお出でにならんだろうかと、とにかくその来迎を待ち望んでいるのに、思いもかけない法皇様でございましたねと。
私は待ち望んでいるのは、来迎だけなんだということを言っているわけです。
ご来迎以外の何も望んでいないということですね。
「――― 女院御涙を押えて申させ給いけるは、 「かかる身になる事は一旦の歎き申すに及ばねども、後生菩提の為には喜びと覚え候なり。」
宮中に居るときはそんなことはとてもそういうことは思いもしなかったけれども、今こういう身になってここに来てみれば、一旦は嘆き悲しんだけれど、然しながらそれは一時のことであって、今はこうして後生を願うことが出来ます。
『女性の身ではなれない位がある』
宮中に居ってはとてもじゃないが、こんな気持ちにはなれない。
そう思えば自分としては、この逆境は幸運であったということですね。
これは決して痩せ我慢で言っているわけではないと思いますね。
「忽ちに釈迦の遺弟に列り、添なくも弥陀の本願に乗じて五章 ・苦しみをのがれ、三時に六根を清め、一筋に九品の淨刹を願う。専ら一門の菩提を祈り、常には三尊の来迎を期す。」
五章というのは、仏教の教えではなくて儒教の教えで、女性は父母と夫と子供に従うということを女性はそういうように教えられてきたんですね、儒教でもそういうふうに教えられているわけです。
仏教では、女性の身ではなれない位があるというのです。
まず第一には仏には成れない。仏に成るには、まずは生まれ変わってきて、まずは男になる。そして仏に成るという。
女性の身で菩薩には成れます。妙見菩薩とかね、菩薩には成れます。
神様にもありますね、弁天さんとか、お稲荷さんは女性が神になってますね。
そういうことはあるけれども、仏に成るということは出来ない。
帝釈天には成れない。梵天には成れない。魔王には成れない。転輪聖王には成れない。そして仏ですね。
この五つには成れない、これを五章というのです。
六根を清めるということは要するに心を清めるということです。
目、耳、鼻、口、身体、意の六つですね。この六つが働きかけて欲望になるわけです。
だからその心を清めるということは、行をするときに六根清浄と言って滝に打たれたりしますね。
一筋に九品というのは極楽へ往生する段階のことを言いますね、上品上生から下品下生まで九品の差がありますね。
その九品往生を願うということですね。
淨刹というのは、浄土のことですね。清い国ということです。
極楽とは限りませんが、この場合は極楽を願ってるんですから極楽浄土ですね。
そして兎に角、来迎を願うと言っていますね。
「いつも世にも忘れ難きは先帝の御面影、忘れんとするけれども忘れられず、忍ばんとするけれおども忍ばれず。ただ恩愛の道程悲しかりける事は候わず。これも然るべき善智識とこそ覚え候へ。」
普通の考えをしてたら、なかなか面影というのは断ち切れない。
作品名:和尚さんの法話 「平家物語の往生思想」 作家名:みわ