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和尚さんの法話 「平家物語の往生思想」

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建礼門院は何処へ行かれたのかと訪ねると、上の山へ花を摘みに行かれましたと応えた。


「さようの事に仕え奉るべき人もなきにや、世を捨つる御身と言いながら御いたわしうこそ」 

と仰せければ、そんな花を摘みに行くようなお使えをする人も居ないのかと。

建礼門院は身分を捨てて一旦は死ぬ覚悟でしたんでしょうね。

そして尼さんになられて、そして隠遁ということになったんですね。

世を捨てた人と言いながら、それはあまりにも労しいことだ。

此の尼の申しけるは、 
「五戒、十善の御果報尽きさせ給うに依って、今かかる御目の御覧ずるにこそ候え。捨て身の行いになじかは御身を惜しませ給うべき。」

この五戒、十善というのは、仏教がいうところの一番初歩の戒律ですね。

五戒というのは、殺生をしない、偸盗(盗みをしない)、邪淫(不倫ですね)、妄語(嘘を言わない)、飲酒、酒を飲まない。
この五つを守るということですね。


十善とは、殺生、偸盗、邪淫、妄語まで同じで、綺語(お世辞をいわない)、悪口(悪口をいわない )、両舌(二枚舌をつかわない)、貪(欲張らない)、瞋恚(怒らない)、邪見(不正な考えをしない)。

これをちゃんと守るということです。
これを守ったら天上界へ生まれ変わるといいます。

が、その天上界も輪廻しますから、今度天皇陛下のような身分に生まれる。
その果報も尽きたとそう言ってるのですね。


『五戒、十善の御果報尽』

一旦は、そういう身になったけど、その果報が尽きたということですね。

そしてこういう目に遭ったと、死ぬことですね。

そして命のあるうちに助けられて、命は助かったけどれども、全てのものは失ってしまいました。


だから五戒、十善の果報は尽きたんだと、いうことですね。

浮世を捨てて、そして後生を願っているだけの生活なんですね、これは。

この世のことを全部断ち切ってしまって、ひたすら後生を願うという生活ですね。

今は、建礼門院様は身を捨てて後生を願っているお方でありますけど、このような生活をなさっていますが、どうしてそんなことを惜しみましょう、そんなことは厭いませんと、言うのですね。



「因果経には 『過去の因を知らんと欲せば現在の果を見よ、未来の果を知らんと欲せば現在の因を見よ』 と説かれたり。過去、未来の因果を悟らせ給いなばつやつや御嘆きあるべからず、――― 」 とぞ申しける。」

因果の道理を心得たら、もう何も嘆くことは御座いませんと言うのですね。

「法皇、此の尼の有様を御覧ずれば、身には絹布のわきも見えぬものを結び集めてぞ着たりける。」

つまり、絹なのか木綿なのかわからない。そういう物を継ぎ合わせて着ているのですね。

「あの有様にてかようの事申す不思議さよ、と思し召し」 

服装に似合わない似合わないことを言われて、みすぼらしい、兎に角、乞食のような継ぎだらけのようなものでしょ。
だいたいその人の服装というものでその人の身分が判りますわね。

特にこの人たちは煌びやかな姿ばかりを見てきて、そしてこんな姿に出会ったら、これはいったいどういう境遇の人なんだろうと、見れば不思議なと思ったんですね。

にも拘らず、かようの事申す不思議さよというのは、過去の因を知らんと欲せば現在の果を見よとか、五戒、十善の果報が尽きたとか、仏教の道理をよく知っている。

にもかかわらず姿がこんなだから不思議に思ったわけでね。
人は見かけによらぬものと言いますね。


『姿だけでは人は判らん』

和尚さんが昔、電車に乗っていましたときに、土方風の人が乗ってきて、子供を連れていたそうです。

それで子供を連れて仕事に行くのかなあと思ったそうです。

すると、その子供が窓から見える桜を見て、わあ綺麗だーと言うのですね、するとお父さんが
「見渡せば柳に桜古希混ぜて都の春は錦なりけり」
と、いう歌を言うのでそれを聞いてびっくりしてね、これはこれはと驚いたそうです。

このお話はこれと同じことですね。

こんなに思うと失礼なんですが、土方風の格好をして、日雇いのようなそんな服装をしている人でしょ、その人の口から歌が出てくるなんて思ってもみなかったので驚いたんでしょ。
ですから姿だけでは人は判らんということですね。

ですからこの法皇さんも驚いたに違いないですね、不思議なことだと。



「抑々も(そもそも)汝はいかなるものぞ」 と抑せられければこの尼さめざめと泣きて誓しお返事にも及ばず。」

さすがに昔を思い出したのでしょうね。


「ややあって、涙を押えて申しけるは、 「申すにつけて憚(はばか)り覚え候へども、故少納言入道信西が娘、阿波の内侍と申しし者にて候なり。 ――― 」 とて、袖を顔に押しあてて忍びあえぬ様、目も当てられず。」

偉そうなことを言うわけではございませんが、故少納言入道信西が娘、阿波の内侍を勤めていた。
だから身分の高い人なんでしょうね。建礼門院にも使えているのですからね。


「――― 供奉の公卿、殿上人も、 「不思議の尼かなと思いたれど、理(ことわ)りにてありけり」 とぞ申しあわれける。」

一人でお出でになってるんじゃないですね、お供の者も一緒に来てたわけです。
なるほど様子を見ればこうだけれども、言うことは只事ではない。
それは道理だな、そのくらいの身分の人であるならば、そういうことも知っているだろうと、こういうことですね。


「さて、あなたこなたを叡覧ありければ、庭の千種露おもく、まがきに倒れかかりつつ、そともの小田も水越えて鴫たつ際も見えわかず。」

水越えてというのは、外には田んぼがあって、水がいっぱいだと、そこへ鴫(しぎ)が降りてくるんだけれど、水がいっぱいで降りることが出来ない。


『来迎の三尊』

「御庵室に入らせ給いて障子を引き開け御覧ずれば、一間には来迎の三尊おわします。」

阿弥陀様がご来迎と言って、我々浄土門は必ず阿弥陀様がお迎えに来て下さると、いうことになっていますよね。
そして、昔は浄土門の各寺に阿弥陀様来迎の三尊の絵、つまり阿弥陀様と勢至様と観音様の三尊を描いた来迎の掛け軸を用意してあったんです。お寺にね。

そして檀家さんが死にますよね、今は死ぬ前に行かないけれど、昔は死ぬ前に行ったようです。
そして寺へもうすぐ死にそうですのでお掛け軸を貸してくださいと言うて借りに来る。

それを枕辺へそれを掛けて皆でお念仏を称えるという風習があって、それをちゃんとしたのですね。
その来迎の三尊の掛け軸が掛けてある。


「中尊の御手には五色の糸を懸けられたり。」

真ん中の阿弥陀様の手に五色の糸があって、これがその当時、そういう風習があったんですね。赤、青、白、黄、黒ですか、その糸を持って、どうぞお救い下さいお願いしますと言って、死ぬときにその五色の糸を握ってるんですね。

そういうふうにいつでも握れるように掛けて置いてある。
阿弥陀様の左の手に五色の糸を掛けてあるのです。


「左には普賢の画像、右には善導和尚、並びに先帝の御影を懸け、八軸の妙文九帖の御疎も置かれたり。」

左右には普賢菩薩と善導大師の掛け軸も掛けてある。