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和尚さんの法話 「八万四千の法門」

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だから私たちが、こんなに信仰しているのになんでなんだ、ということがあったら、業決定であるのか、決定でなかっても決定は100%としましたら、90%としましたら、その90%をひっくり返すというのはよっぽど功徳を積まないとなりません。
80%でもそうでしょう。だから自分が信仰しててなんでこんなに、ということがありましたら業決定であるのか、或いは業がそうとう深くて信仰がそれには及ばないのか、どっちかです。

これも和尚さんのお寺に或るお客さんが来まして、其の方は、弘法大師を信仰なさっている方で、その方というよりお母さんが昔から信仰しているそうです。

ところが、最近信仰をやめてしまったそうです。それはどうしてですかと聞きますと、足がリュウマチになって、足が曲がらないんですと。
人中へ行くのも嫌になるし、信仰してる最中に。
病気になって神仏に祈って治してくれるのが神仏なのに、お母さんは元気なときから信仰してるのに、信仰している最中にこんな病気になってきた。こんな信仰はあかんというわけです。

というので弘法大師の掛け軸も巻いてしまって仏壇の引き出しの中へつっこんでしまった。と、そういうのです。

和尚さんは、それは違いますよと、今の話しですね。決定でなくても自分の信仰が足りないのかもしれない。
自分の信仰より上回った人間が、深い人間があればどうかわからないが、それがすれすれのところならば、もうひとつ信仰をしたならば治らんこともないのとちがいますかと。

だから自分が信仰をしててなにか、兎に角一から十までいいこと尽くめというわけにはいきませんから。

前世の因縁と自分の信仰と或いは自分の心掛けとの兼ね合いですから。

だから信仰をしてて悪いことがあったら、これはよっぽど自分の前世の因縁が深いんだと考えるとか、自分の信仰が足らんのだなと考えるとか、そういうふうに思うて更に信仰を深めないといけませんね。

そうして前世の因縁を上回ったら、またよくなるかもわかりません。

そう言うようにその方に言いますと、家に帰ってお母さんに話したそうです。

そしたら、そうかいねえと言って、また掛け軸を出してきて信仰を始めたそうです。

そうしますと、リュウマチが治ったそうです。

治ったというので其の方のお母さんが、和尚さんにお礼に来たそうです。

和尚さんの言われたとうりに信仰をしましたら足が治って、座れるようになりましたと。

そういうことで、業決定でなかったら、すれすれだったらもうひとつ心をこめて信仰をなさったら、治らないものも治るということもあるし、そこのところは我々には分からないですよね。

だから信仰をしながら都合の悪いことがあったら、自分の信仰が足らんのか、前世の因縁が深いのか、このどちらかですから。

そういうふうに考えを改めないといけませんね。


『臨死体験』

話しは前後になりますが、最初のお話の行者のお婆さんですが、そのかたはもう信仰はちゃんとなって、臨死体験をされて、というのは、一週間息がとまったんです。

息も脈も止まってしまったそうです。だから普通だったら死んでるんですよね。

ところがお医者さんが、身体が温かいからまあ一日おいてみよう、そしてあくる日に様子を見に来て、まだ温かいな、もう一日おいてみよう、もう一日おいてみようといって一週間がたって、そして息を吹き返したんです。
それは明治の頃ですから現在だとどうなんでしょうね。

その一週間のあいだにそのお婆さんが、四国を行脚してたというんです。それが夢だと思ってたんです。

これは霊夢だと思ってたので、病気が治ったら四国へ参りなさいという弘法大師さんのお告げだなと思って、それからすくすくと病気が治って、それから四国を廻ったんです。

ところが夢の中で観たのは一番下の子供を背中におんぶして廻ってたというのです。


だから子供も連れて廻りなさいという意味だなと解釈して、子供を背中におんぶして四国を廻ったんです。

そうすると、夢に観たこととよく似たことが道中に起こってくるんです。
ここも観た通りだな、ここも観た通りだなと。

そうしたところが夕暮れに山裾を歩いていたところが、ぱっと前にお坊さんが現れたというんです。そして、お前はこの前のことを夢だと思うているだろうが、あれは夢ではないんだ。

私がお前を連れて案内して廻ったんだ。十九番の立江寺の地蔵さんへ行ったら気がつくぞ。と、こう言ったんです。

そして十九番の立江寺の地蔵さんへ行ったら、はっと思った。
それが、お地蔵さんの横に大きな松の木が一本あって、その枝が折れて屋根の上へ垂れ下がってたというんです。

夢の中でそれを観て、あの木を早くなんとかしないとあの枝が屋根の上へ落ちたら屋根が壊れるのにな、とそのとき思ったというのです。

それから病気が治って、今回子供を連れて四国を廻ってきてるわけです。そしたらあのときの松木の枝が落ちて屋根が大きく破れてるんです。

それを見たときに、前に夢だと思ってた時に見た松の木の枝は垂れ下がってたのに、今回来るまでに落ちて屋根の瓦が割れてる。

だからお坊さんが案内して廻ったんだというそのことは、やっぱり自分は本当に来てたんだ。単なる夢じゃなかったんだ。と思ってはっと、胸を打たれた。

それではあのお坊さんは弘法大師さんだったんだと思ったんです。
それを言うてお坊さんは消えてしまったというから。

それから次々とお寺を廻ったわけですが、その頃はお寺へ泊めずに、お遍路さんの宿屋が多くあったんですね。

ところが、何処もかしこも満員で泊めてもらえる所がない。

そして一番最後に泊めて下さいといったところの奥さんが、満員だからというので、浜へ行ったら芝居小屋が建ってるので、そこなら畳が入ってるのでそこへ泊めてもらいなさいと、そう言われたので仕方がないので芝居小屋の前まで来たんだけれども、遊びに来てるんじゃない、信仰で来てるんだから。

芝居小屋とはいえども人様の建物でしょ。

そこへ泊りなさいとは言うたけれども、その建物の持ち主が言うたわけじゃない。

その人に無断で入って寝て、信仰で来てるのにそんなことをして罰はあたらないだろうかと思うて思案してたわけです。

泊るには宿はないし。

そうこうしてたら向こうの方から、明治ですから提灯ですね、提灯の灯りがゆらゆらと近付いてきて、紀州のお遍路さーん、紀州のお遍路さーんと言って提灯を持った女の人が来るんです。

そして紀州の遍路といったら自分だけだから、はーい私ですか、私はここですがと言ったら、ここにいましたかと言って、まあまあ家へ来て下さいというのです。

ちょっと窮屈ですけど他の人にも辛抱してもらいますので貴方も辛抱して家へ来て下さいと。
いうことなんですが、ところが不思議だなと思ったんです。

自分が紀州の遍路で、こんなところへ来ているということを誰が言うたのかと、その迎えに来た人に聞いたら、今坊さんが来て、浜の芝居小屋で紀州の遍路が泊ろうかどうしようかと思案してると。

一人ならそれでもいいんだが、小さい子供を連れてる。