和尚さんの法話 「八万四千の法門」
霊魂は不滅で尽きないのです。ただ生まれ変わり死に変わりして上へ上へ、悪いことをしたら下へ下へと、上がったり下がったりしてるんです。
一切衆生とはそれはもう無数の数のものですよこれは、尽くし難しということは、然しながら仏さんは増えていくわけです。
今から三千年ほど前にお釈迦様という一人の仏様が一人出来た。それで一人衆生が減るわけなんですが、仏に成るともう転落しませんからね。
次に弥勒という仏様が、五十六億七千万年後に、今は菩薩ですけれども、この世へお出ましになってくると如来に成って、また仏教を広めていく。
と、こうなって、仏教は次から次から仏様が出てくる。
だから仏様が一人ずつ増えていくわけなんです。
既に過去に恒河砂数の仏様に成った方がいらっしゃる。
未来に無数の仏様が出てくるとお経に説いてあります。
が、そこへもって鳥類と魚類と虫類と獣類と、この世の霊魂を皆言うとこれはもう大変な数になりますが、それは皆仏にしてしまうということは、尽くすということですが、これは出来ないといっているのです。
次に弥勒という仏様が一人増えますが、年数はかかりますが次次に出てきては仏様が増えるんですが、算数的に言うたら仏様が一人ずつ増えていったら、いつかは尽きてしまって皆、仏様に成ってしまうだろうということになるのですが、ところがこれが出来ないというのです。
無限の一定数、それをしようというのがお地蔵様なんです。
お地蔵さんは全部仏にしてしまおうといってるのです。全部仏にしないと自分は仏に成りませんという誓いをたてたんです。
だからお地蔵さんは、お釈迦様や阿弥陀様より遥かに先輩なんです。
お釈迦様や阿弥陀様は修行をしながら仏に成って、そして衆生済度をしようという誓願をたてた方々で仏に成っていますね。
ところがお地蔵様は衆生を全部仏にしてしまわないと自分は仏に成りませんという、こういう誓いをたててるので、お地蔵様は永久に仏に成れない菩薩であるということになってるのです。
業決定は転じ難し。
この人間は、三十歳で死ぬという決定的な業を持って生まれてきている人は三十一歳にはならんということです。
例えばの話しですが、絶対にここで怪我をするという人間は、大きな怪我をするが命にはかかわらんが、ここで絶対に怪我をする。
というような場合を決定といいます。
これは転じ難し、これはどんなに神仏に祈ったところでだめだということです。
その代わりに埋め合わせというのがあって、このことはだめだけれども、一所懸命に祈ったことは、無駄にせずに別の事に埋め合わせてくれるのです。
然しながら業決定は転じ難しです。
その話しも以前にお話ししたかもしれませんが、
其の方は女性ですが、一人の行者さんがいまして、弘法大師さんを信仰していましたけど、信仰の深い方で、其の方が満州事変のころに、日本が満州へ延びて行って発展している頃ですが、其の時にその方が、今日本はこんなことを言ってるけれども、今に日本の空から火の雨が降るときが来るぞ、と予言をしてたんです。
それから十年ほどたった頃に日本は大東亜戦争になって焼夷弾が降ってきて爆撃されて、そのことを言ってたんですね。そんな方なんです。
其の方が、どういう動機で宗教に入ったのかと、その方と家が近かったので和尚さんはよくそういう話を聞かせてもらったそうです。
話しを聞けば、その方は貧乏な家の方で、三十歳にならん間に子供を三人残して夫が亡くなったそうです。
そういうことで働いたわけですが、それは不徳なんですね、そういう境遇に生まれたということは。
明治時代のことですが、その長男が病気になって、お医者さんにだめだと言われたんです。
お医者さんがもうだめだということになったら、あとはもう神や仏に頼むほかはないということになるのだが、神や仏があるとは思えないわけです。
然しながら人の話しを聞けば、何処でどういう御利益を受けた、何処でそういうおかげを蒙ったと言う人は一人や二人ではない。
そうすると、やはり神や仏というものはあるのかな、自分は無いと思うのだけど、もう何処へも頼むところがない。
お医者さんがだめだとさじを投げたんだから。
と、いうので和歌山に鳴滝という滝があるのですが、その時分は和歌山に住んでたそうなんですが、仕事を終えてから近所の人に子供をみてもらって冬のさなかに山へ滝に打たれに行ったんです。
滝に打たれて、どうぞ神仏があるならば、私の子供の命を助けて下さい。
その子供の命が助けてもらえるものならば、私の命は縮まっても結構です。
取り替えても結構ですからどうぞ子供の命を助けて下さいと、毎晩毎晩滝に打たれたのです。
すると、或る晩のことに滝に打たれて祈っていたら、声が聞こえてきたのです。
「私はこの滝に住んでいる者だ。私は、真心をこめて祈る者には願いを叶えてやるのが仕事だ。ところがお前にかけられた子供を助けてくれというこの願は、叶えてやれないのだ。
お前は子供が助かったら自分の命は縮まっても取り替えても結構だというが、この子供はもうここで死ぬ。
ここで死ぬべく子供は生まれてきている。ということが決まってある。」
と不動明王の声が聞こえてきたんです。
前世でこういう境遇に生まれるということが決まってあるわけです。
だから私としてどうにもならないんだと。
そして、お前は命を縮めてもらっても取り替えてもというが、お前は長生きをする。
これも決まってるんだと。だから私としてはどうすることもできん。
だからせめて、お前の気持ちを察して可哀そうだから泣いてやるといって、お不動さんがおいおいと泣いてくれたそうです。
そして、これだけのことを言うてもお前はたぶん疑うだろう、信じないだろうと思うから、ひとつ証拠を残しておくぞ。幾日後の何時に子供は死ぬ。
そのとうりに死んだら、私が言ってるんだから神仏というのがあるんだということを悟りなさい。
おまえは何れは、神仏に使える身に成るんだぞ。と、こう言ったそうです。
そう言われたけれども、これはきっと自分はおかしくなって仏の声が聞こえるんだろうか、或いは神仏というものがあるんだということがお試しということがあるということを聞いてるが試されてるんじゃないだろうか。
助かるんだけれども助かるんだぞと、試されてるんだろうか。と、いろんなことを考えたけれども、兎に角あいもかわらずその滝へ通ってた。
ところが、言われた日のその時間きっちりに死んだんです。
だからそれではじめてもう助からんと、最初に言われてるんだから、なんで助けてくれなかったんだと、口答えようがない。
あのとき助からんから泣いてやるといって泣いてくれた。
それでも信じないだろうから証拠を残しておくと言うてそのとうりに死んだら神仏があるんだということを信じよと。
おまえのその毎晩毎晩滝に通ってるその功徳は無にはしない。その功徳を持ってこの子はあの世で、いいところへ生まれさせてやる。だからせめてそれであきらめよ。
こういうことがあって、その方は信仰に入ったんですということです。
これは業決定ですね。
作品名:和尚さんの法話 「八万四千の法門」 作家名:みわ