和尚さんの法話 「八万四千の法門」
手相や人相で観て言われたことですが、それが出るというのが不思議なことですね。
出るくらいであれば神仏は当然観えるということです。それがなんで出るのか不思議ですね。
直接神仏に聞けばわかるのでしょうけど、兎に角宇宙には不思議な神秘がありますね。
私たちが偶然だと思うていますが、あそこで偶然可哀そうなことになって、と言いますが偶然じゃないんです。
必然なんです。
世の中には偶然というのは一つも無いんです。
全てが必然です。
ただその必然を知らないだけのことです。
その必然とは、因果の法則です。
『運命』
易者は運命鑑定は宗教じゃありませんから、こうなるこうなると言うていたらいいけれども、宗教家はなんでそうなるのか、なんでそんな目に遇うのかと、遭わないように言わないとなりませんから、だからそれはこの世で覚えが無かったら、それは前世の因縁なんだと、そして大いに信仰をしなさいと、そして悪いことをしなさんな、善いことをしなさい、特に殺生はしなさんなと、いうわけです。
その剣難の話しは、体験談を書いた書物に生涯に二つの大難があり、といって言われたことを書いてあるのです。
大難というのは幾つのときに剣難の相があって、幾つのときに剣難、この後の剣難は助からないと言われて、なんとかして助かりたいからどうしたらいいか、どうしたらいいかと聞かれて、易者はどうしても助からない、こうして相に出てるものはそうなるんだと。
こう言われたんだけれども、然しながらと無理に言うたら、善いと思うことはなんでもして、悪いと思うことはなんでもするなと、そして贅沢をするなと、そして信仰をしなさいと、易者に信仰をしろと言われたんです。
それでも助かるとは請け合わんが、おまえがあんまりどうしたらいいかと言うものだからこういうたけど、それでおまえの命が助からんと思うが、マイナスにはならんだろうと。
命が助かるということは請け合わんがと言われたけれども、それを守っていたら助かったんです。
切られたけれども、すぐに逃げたんで助かった。そのとき、剣難で助からんと言われたのが今年だ、このことだと思ったので逃げた。
逃げたけど一太刀切られたけれども逃げたんで助かった。
それで運命ということがあるというのを悟って、易者になった人です。元は、武士で浪人してた人で、水野南北という人です。
そして世の中には運命というものを信じないがために、怪我をしなくてもいい怪我をする。自分も以前はそうだった。
あのときに分かっていたらあの怪我はせずに済んだかもわからん。
ところが信じてなかったから言われたとうりになった。
今度は死ぬと言われたけれども、ところが言われたことを一所懸命に守ったらそのおかげで助かった。
これをそのままあそこで切りあっていたら死んでいたにちがいない。
世の中にはそんな人がいくらもあるはずだ。だから自分が易者になってそういう人たちを助けたいといって易者になった人で、お金儲けのために易者になった人とは違うのです。
生涯に二つの難がありと、自分の体験を書いた本があり、こうしなさいああしなさいと、つまり善いことをして悪いことをしなさんなと、江戸時代の人ですから、親を大事にして目上を大事にして、節約倹約すると、自分が」言われたことで参考になることを皆に言ったんです。そして信仰をしなさいと。
坊さんと神主さんの運命は判断がし難いと、なぜならば彼等は信仰を持ってるので運命を超越する相があると書いてあるのです。
それはそうですね、大難が小難になって無難で済むこともあるのですからね信仰のお陰で。
『縁無き衆生は度し難し』
これは今のそれとちょっと違ってるんですが、神仏のお陰という話ですが、或るお客さんが来て、その方がどんな相談で和尚さんを訪ねてきたのかわからないのですが、其の人が言うたことが印象に残ってるそうです。
その人の息子さんが、学校を出て社会人になっているのにちっとも仕事をしないんです。
毎日夜遊びをしてるという有り様です。
こんな子を残して自分たちが死んだらどうなるのだろうと心配をするわけです。
それが心配で死ぬにも死に切れないというわけです。
それにその子も不幸だと、親が死んでしまってもこんなことをしていたら本人も不幸だというので、南禅寺の近くの滝に夜の夜中にお参りに行ったというのです。滝に打たれにいったんじゃなくお参りだそうです。
滝のお不動さんをお参りして、どうぞ息子の道楽を治して頂きたい、真人間にして頂きたいというて、夜の夜中に毎晩、毎晩行ったというのです。
和尚さんも行ったことがあるそうで、夕方行ってもあの場所はぞっとするような所だそうです。
それを夜の夜中に行ったというのです。
そして幾日かその滝へ通っていたら、或る晩に夢にお不動さんが現れて、明日の晩に息子を連れてきなさいというのです。
そういうお告げがあったんです。
然し、あの子があんな山に中へついてくるだろうか、遊びまわっているような子がと思ったが、夢のお告げがあったので、次の日に母さんに付いてくるかと聞いたら、ああ行くぞーって言うのです。
あれまあ珍しいなと思った。
そして夜中に十二時を過ぎてから滝へ行って、ちょっと待っててといって、息子を待たせておいて境内のお堂に順に御燈明をあげたりお線香をあげたりして、心の中でここへ来ているのは私の息子でございます、どうぞこの子を真人間にして頂きとうございますと、いつもどうりにあっちへ拝みこっちへ拝みして、そうしている間に息子はお母さんが拝むのを待っていたけれども、暫くしたらお母さんが拝んでる後ろから息子が抱き付いて、お母さん悪かったーと言ったんです。
息子はお母さんが夜中に何処かへ出ていくのを、どこへ行くのだろうと思っていたら、こんな所へ来てるとは知らなかったというのです。
夜の夜中にこんな寂しいところへ、男でもこんな所へ来れないと。
もう分かったから明日からこんな所へ来るのはやめてほしいと。真人間になるからやめてと。
その日から手のひらを返したように、ころっと変わったのです。それからというものは、いい息子でございます。ということです。
お不動さんに一所懸命にお願いしたから、治してやるぞ、治してやるぞと一所懸命に治して下さったのでしょうね。
ところが、神も仏もどうしようもないということもあります。三種不成といって、これはどうにもならない。
助けてほしいといっても助けてやりたいが、助けてやることが出来ないというのです。これが三つあります。
一、 縁無き衆生は度し難し
二、 一切衆生は尽くし難し
三、 業決定は転じ難し
お釈迦様でも縁の無い衆生は救う事が出来ないとおっしゃってます。
一切の衆生とは、これは人間だけじゃないのです。
狭くいうと人間をいうのですけれども、広く言うと生き物全部をいうのです。
植物は違いますが、動物全部という意味です。
虫から魚から鳥、獣類、つまり霊魂を持っている動物です。
それは皆、仏教からいえば皆仏に成れる可能性を持ってあるからです。
蟻の一匹でもいずれは仏に成れるというのです。いつか無限の時間をかけてね。
作品名:和尚さんの法話 「八万四千の法門」 作家名:みわ