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和尚さんの法話 「八万四千の法門」

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『善因楽果、悪因苦果』

仏教は、八万四千の法門といいますね。あらゆることが説かれているという意味ですが、きっちり八万四千というのではごじませんが、奥行きは深いし間口は広いということです。

或る時、お釈迦様がお弟子を連れて道をお歩きになっていたとき、大きな木が葉を茂らせていたのですが、そのひと枝を折って、そして弟子たちに私が今折ったこのひと枝に付いている葉の数と、木に茂っている葉の数と比較したらどちらが多いかと、お釈迦様はよくそういう例えごとをおっしゃるんですね。

で、お弟子さんは、それは例えるにもなりません。世尊がおとりになった枝の葉の数というのはすぐに数えることができます。ところがこの木にはえている葉の数というのは、ちょっと数える事ができません。

そうであろう。私が悟りを開いて今日まで説いてきた法門(お経)の数というものは、例えばこのひと枝に付いている葉の数とするならば、まだ私が説き残してある法門というのは、この木に生え茂っている葉の数の数に等しいのだ。という例えがあるのです。

現在分かっているお経の数というのは、四千巻余りだそうです。
それでもまだ説き残してあるお経があるということをおっしゃっているのです。

ですから如何に仏教は奥が深くて間口が広いかということがおわかりになると思いますが、その中でも過去の仏様も説き、その前の仏様も説き、そのまた前の仏様も説き、と説いている特に大切なことというのは、善因善果悪因悪果ということですね。

因縁ということです。因と縁がプラスして果ということになるのです。
因が善であるならば、善因善果悪因悪果といいますが、善因楽果、悪因苦果という意味ですね。

ようするに苦というのは不幸で楽というのは幸福ということですよね。
要するに幸福か不幸かということですが、幸福不幸というのもいろいろありますね。

お金で苦労をすることもあれば、健康に苦労をすることもありますし、いろんな苦労がありますね。要するに幸福が楽で、不幸が苦しみですね。

これが仏教の因果の教えであって、これが以前にもお話をしましたが、

一、 順現業
二、 順次業
三、 順後業
四、 順不定業

こういうふうに四とうりの説き方があるのです。
因縁の報い。因が果となって現れるのに、この四とうりの現れ方があるということです。

そのときに体験があったことをいろいろ和尚さんに言うんだそうです。
それで信仰というのは結構なことですね。
と聞いていた話しの中に印象に残った話しがあって、これは参考になるなと思ったことは人にも話しを伝えて、私だけではないですよ、他にもありますよと。

其の方がお話したのが、戦後、進駐軍のジープという自動車が、家の角を曲がったときにそのジープと衝突をしたんです。
ところがほんの軽くですんでしまったんです。
出会いに当たったんだけど、ジープがすぐに止まってくれたので軽くすんで、当たったところは骨折もなにもしなくて青くなった程度ですんだのです。

それからどれくらいか日がたって、別の事で相談事が出来たので、その行者さんの所へ行った。その行者さんが信仰している神さんは、たしかお稲荷さんだと思います。

その神さんにいろいろ相談を聞いてもらって要件が済んだら、その神さんが曰くには、おまえは、私を信仰してくれているからそのことはようく分かっている。

だからいつもおまえを護ってやっている。
護ってやっているのだけれども、おまえはちっとも気がつかん。だからひとつ教えておくが、何時幾日にジープに当たっただろう。

と、神さんに言われたのです。

ところがその話しを行者の先生には言ってないのです。

言ってあったらその先生は先入観で言ってるんだろうと思うのですが、ところが先生には言ってないんです。

それに骨が折れたわけじゃなし、軽く済んでしまったものだから自分も忘れてしまってた。

それが足の一本も折れたというのであったら先生にこんなことがありましてと話したと思うんです。

それが神さんが、お前はこのまえジープに当てられただろうと。

それは私は危ないなあと思うたので、一所懸命に護ってたんだと。
それをおまえはちっとも気がつかん。

だから今ようく思い出してみよと。

あのジープに当たる二、三日前から家から出るのが嫌だっただろうというのです。

そう言われて考えてみますと、なるほどそう思うて考えたら、その頃なんで外へ出るのが嫌だろうなと思った。というのです。

お風呂へ行くのも嫌やし、買い物に行くのも嫌やし、兎に角外へ出るのが嫌だと思ってたんです。

ところが、子供がなにか買いたいと無理を言うて、子供の手を引いて家の角をまがったところにジープが来て当たったんです。

その外へ出るのが嫌だったのが、私が危ないから外へ出るな出るなと知らせたんだと。

ところがお前は気がつかんから当たってしまったが、然し軽くすんだだろう。
これからもあることやからよく気をつけなさいよ。と、こう言ったんです。

そんな車に当たるというのも、何時幾日に何処の角で何時頃に車に当たるということを神さんは分かってるからですよね。

あの者は何時幾日になったら、あの角で車に当たるということが分かってたんです。

車に当たるというのは、三秒か四秒のことでしょ。その後でも先でも当たらないんですよ。

神さんは自分の信者を護ろうとして当たらないようにしてくれてたんです。


それからもうひとつは、別の人ですが。府庁か市役所に勤めている娘さんですが、なにか神さんを信仰してるんですが、其の方が或る朝、仕事に出ようかと思ったとき、ふっと、行くのが嫌気をさしたというのです。

ところが、病気でもなし、急に用事が起こったというわけでもないので、欠勤の届も出していませんので出勤することにしたんです。

電車に乗ろうとするのですが、満員で押し押しで乗るのが最後になってしまって、ステップへ足をかけたところが押し戻されてしまったんです。

その反動で道路へひっくり返ってしまって倒れたんです。

そこへトラックが来て、倒れたときに髪の毛が散りますが、その髪の毛をトラックがひいたんです。

当に間一髪で頭はひかれずに済んだんです。

こういうことがあったから信仰をしていなかったらそこでトラックにひかれて死んでいたかもしれないと。

死ななかったとしても頭を打って大怪我になっていたと思いますと。
いうような話です。そういうことは信仰を持つ人には経験があるかもしれませんね。

それは信仰のおかげだというのと同時に、運命というのは決まっているんだということです。


これも以前にお話しをしましたが、剣難に遇うというお話ですが、何年後に剣難に遇う。

それから何年後にまた剣難に遇う、次に剣難に遇ったときは命がないというお話です。

手相に剣難の相があって、最初のは助かる。
次のも助かる、更に何年の何歳のときに剣難があってその剣難は命にかかわると言われた昔の話しです。
そのとうり剣難があったわけです。

それは手相で観てたか人相で観てたんでしょうが、何歳のときにこうなるといわれてそのとうりに来たわけです。それは神仏じゃありません。