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和尚さんの法話 「禅」

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ところが、細かい物質があって、目には見えないけどあるというのが、「無見有対色」ですね。
例えば細胞とか、微粒子ですわね、分子とか電子とかありますわね、目には見えないけども、対立しあう。この二つは物質なんです。

ところが、「無見無対色」というのは、目にも見えない対抗もしない。
これが霊魂なんです。


「十一、
深般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊皆空なりと照見して一切の苦厄を渡す。
舎利弗よ色は空に異ならず。 色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり。 受想行識も亦復是の如し。
舎利弗よ是の諸法の空相は不生不滅不垢不浄不増不減なり。」

― 般若心経 ―


この、ここに出てくる色が今いう色なんです。
ですから深般若波羅蜜多を行じないと分からない。
深というんですから浅いのもあると思うんですけれども、深般若というんですから、これは阿羅漢以上の禅定ですよこれは。
禅定なんですよ、般若波羅蜜多というのは。
禅定に入らないと般若波羅蜜多は獲得できない。

色即是空というのは、物質じゃないんですよ、肉体じゃない。無表色なんです。

どの解説本を見ましても、色というのは肉体と解釈してますわね。
それは無表色、別の言葉でいいますと、法界の色といいます。

十、
「身心一如」 肉体を離れて精神なく、精神を離れて肉体なく、其の実体は全く一なりという意。
また、性相不二という。 (誤り)

― 仏教辞典 (宇井伯寿) ―


十二、
たとえば人間を仮に精神と肉体の二つに分ける時肉体を 「色」 と言います。
色とはどんな場愛でも形の有るもので有形の存在は何らかの色彩を持っているので 「色」 といいます。
―― 色とは前にも言ったようにすべての物質現象を言うのです。 (誤り)

― 松原泰道 ―


十三、
「法」 には 「教」 「きまり」 の意味でありますが、仏教の真理である 「諸行無常」 や 「諸法無我」、 つまりすべての事物の存在のきまりとはたらきが 「物体」 に現れているという意味で 「物質現象」 を 「法」 の一語で表します。 (誤り)」

― 松原泰道 ―

この人の解説は、物質のことを法だと説いてありますね。

この人は般若心経の解説本をたくさん出してると思うのでが、禅宗の坊さんですわね。

法とは物質だと解釈してます。

この人に限らず皆、物質のことを法と解釈しています。

これも出世間の法と世間の法があるんです。

つまり狭い意味の法と、広い意味の法。

存在する物質も法といいますけれども、ところが広い意味ではこの物質も含まれるんです。

後は何かというと我々の心なんです。
物質はいくら研究したって悟れませんでしょ。
そんなものをいくら調べていったって関係無いんです。

心の中の分析をしませんとね。

意というのは、意識ですね、ですから法というのは意識が対称なんですね、それは禅定に入らないと、五識が消えて意識が見えて、天眼通、天耳通というのが付いてくるんです。

この意識の対称となってるのが法なんです。
「有見有対色」、「無見有対色」ちあるんですが、「有見有対法」、「無見有対法」というお経もあるんです。

狭い意味の法というと意識の対称が法。法というのは禅定に入らないと観ることが出来ない。

これを観法(かんぽ)といいます。
この観法が出来たら、公安なんというのはなんでもない。


達磨さんというインドの坊さんがありますね、中国へ法を広めに行きましたね。

中国の人達は、インドから偉い坊さんが来るというので、どれだけ偉いのか試してみようではないかというので、本を見せたというのです。
この本はどんな本か分かるか。

一つは、中国の歴史を書いた本だそうで、それで達磨さんは、わしは中国の文字が読めないから、ちょっと貸してくれというて、匂いをかいだそうです。
これは血生臭いなあと言ったそうです。



そしてもう一つは、易経という八卦の本を見せると、匂いをかいで、これは占いの本だなと。

だから達磨さんは悟ってるんです、悟ってたらそういうことが出来るんです。

そのために悟るんじゃないけれども、自然に付いてくるんです。
そういうものを得ようとしてするのは邪道ですけどね。

ほんとうの修行をしてて、本当の信仰をしてたら自然とそういうのが開けてくるんです、煩悩が減ってきたらね。

阿羅漢さんになって滅尽定に入って肉体からすーっと抜けて何処へでもとんで行く。そしてまた戻ってくる。

そういうことはお経の中にいくらでもありますが、そういうことを信じられないんですね、霊魂を認めてないし、禅定という本当の意味を分かってないから。

浄土三部経に観無量寿経というお経がありますが、そのお経の中に、韋提希婦人が牢の中から頼むんですね、そのときにお釈迦様が空中を飛んでくると言う場面がありますね。
そして帰るときに、足虚空を踏んで霊鷲仙に帰り給うと。

お釈迦様が霊鷲仙で説法をしている最中に、途中から観無量寿経を説いたんですよね。

来る時は空を飛んできて、帰るときは空を歩いて帰ったというんです。
これは霊魂が移動しているわけで、お釈迦様は禅定に入って霊魂で来たわけです。

話しが飛びますが、頻婆娑羅王が幽閉されて、お釈迦様に会うことが出来ないし嘆くんですね。

それをお釈迦様が、他心通で見抜かれて、そして大勢の弟子たちを引き連れて牢の中へ神通力で入ってくるんですね。
こういうことを今の学者さんたちは、おとぎ話だと思うんですね。それは信仰が無いからそう思うんです。
お経に書いてあることは、そのまま本当のことだということです。だから霊魂は不滅だし、地獄もあるし極楽もあるんです。
だから霊魂が無いというのは、根本的に間違ってるんです。
そのうえにいくら言うてもみんな間違いですわね。
だから、霊魂が無い、あの世も無いという人にはそこから先は何も言う必要が無いと思いますね。
これは仏教だけの問題ではないと思うんです。
霊魂は不滅なんだから、それを科学者も認めてもらわんと困るわけです。
科学者も認めてくれると非常に有益です、医学も進歩しますしね。いろんな面で変わってくるはずなんです。
因果応報も信じるようになるでしょうし、地獄も信じるようになると、ちょっとは犯罪も減るんじゃないかと思うんです。
そういうことを信じないから、不正をしたほうが利益になるから犯すんでしょ。
ところがそうはいかない、死後に必ず報い有り。

禅のお話でございますが、霊魂を否定したらこれはもう仏教ではないし、宗教ではない。と、私は信じてるわけです。


悟ったことを、見性(けんしょう)といいますね。
秋月さんの書いた本にある一節なんですが、或るお坊さんが、悩んで悩んでもう死のうかと思ったと。

そして崖から身を投げようとして片足を踏み出したとたん、そのときです、朝日の光がきらっと射し込みました。

それを見て老僧は、はっと全身電気に打たれたように感じて、長年の心中の暗雲が始めて開けました。見性したのです。と、こう書いてあります。

そういうのを見性と、こう言ってる。
作品名:和尚さんの法話 「禅」 作家名:みわ