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和尚さんの法話 「禅」

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霊魂が無かったらそれでいいんですよね。
霊魂があったら、そうはいきませんね。

なんのために我々は追善廻向ということをしてるんでしょうかね。

葬式もすれば、廻向もしますよね、これは霊魂があるからするんじゃないのでしょうか。

禅宗には公案というのがあるそうですね。禅問答の試験みたいなものだそうですが、この公安が通れば一人前になるということだそうです。


例えばその公安というのは、十九番に、「如何なるか是れ西来の意。庭前の柏樹子」 というのがありますが、

これは中国のじょうしゅうという坊さんがありまして、お友達の禅宗の坊さんのところへ遊びに行って、その庭に面した部屋でそこの住職といろいろ話しをしていたわけです。

そこへ、そのお寺の修行僧がお茶を持ってきてその、じょうしゅうさんに出しまして問うたんですね。

僧ちなみに問う、如何なるか是れ西来の意。 庭前の柏樹子と。
これは達磨さんが、西のインドから中国へ来られた、その意味はなんですかと、表の意味はそうですけど、仏法の本来の、これが仏法だというのはそれは何ですかと、質問をしたわけです。

表面的には、達磨さんがインドから来た理由はなんですかと、なっていますけど、仏教とはなんですかという意味なんですね。

そしたら、じょうしゅうは、庭の松の木を指して、「庭前の柏樹子」と。
これは分かるかと、これが分かっていれば、おまえは悟ってるんだと。こういうことです。


次に二十番に、「両掌相打って音声有り、隻手に何の音声か有る。」 というのがありますが、これは白隠禅師が、ご自分で称えた公安なんですね。
手は叩いてはじめて音がする。
おまえは片手の声が聞こえるか。聞いておれ。
はて、片手の声?

なんのことだかさっぱり分からないわけですね。

或いは、二十一番、「億劫相別れて瞬時も離れず、尽日相向いて刹那も対せず。」

これは全く矛盾した言葉ですね。

離れておって、離れてない。向っておって、向ってない。
これはなにを言わんとしてるかということですね。

それから、廿二番、「日出でて樹に影無く、鼓を打って声を聞かず。」

お日さんが出て、木が生えてる、ところがその木の陰が地面に映らない。

そんなことが、我々のこの世界には絶対に有り得ないことですね。

影と形とは常に離れないでしょ。

ところが、日が出ても木に影が無く、太鼓を打っても音がしない。
それから、廿三番、

「空手にして鋤頭を握り 歩行して水牛に騎(またが)る
午橋上より行く  橋流れて水流れず。」

と、こういう公安なんですが、この公安というものは、禅定の世界の出来事なんです。

現実にこういうことはあり得ないんです。

だからいくら考えてもできるはずがない。だからまずは座れということですね。

禅宗の中でも皆が間違ってるとは申しません。例えば、和歌山に禅宗の寺があるそうでして、その寺に、鎌倉時代ですが、かくしんという坊さんがおって国師という名を頂いてる偉い坊さんなんですが、いつも鎌倉へ行って、将軍さんが教化してもらおうと思って、呼ぶんですが、何時の間にやら居らんなと思ったら、和歌山の自分の寺へ帰ってしまうんですね。そういう坊さんなんです。

その坊さんが偉いということで評判になって、昔は剣道でも他流試合といって、腕に自信があったら道場破りに回りますわね、禅宗でも問答のやりとりで負かしてやろうというわけで、訪ねて回ったそうです。

或るときに、評判を聞いた坊さんが、あの偉いという評判の坊さんはどれほどのものかやっつけてやろうというので問答をかけに行ったんです。

ところが、問答をかけにきてるというのをちゃんと見抜いて、「汝の心中の刃を取り去れ」 と言ったんです。

わしをやっつけに来たんだろうと、いうわけですね。
心の中に刃を構えているだとうと。その刃をとれと。
ちゃんと見抜いてしまってるわけです。

それを般若と言ってるんでしょうね、般若といいますね。
ほんとうに禅定に入ったらそういう般若が出てくる。


それからこれも鎌倉時代の中国の偉い坊さんに日本に来てもらって日本で教化してもらいたいというので、時の誰かが向こうの偉い坊さんを一人日本へ送って欲しいと頼むんですね。

それで来た坊さんで、無学祖元という人ですが、この人も国師をもらわれた人です。

この人は、なんでも先のことを予言をしたんです。
時宗がこの人の指導を受けたんです。

それで神風が起こったことも予言した。
なつの頃に、春夏交わるの頃に博多に騒動が起こると。

然し、心配しなくてもよい、なんとか収まるでしょうと。

言うたのが神風ですね。

それから弟子たちと一緒に座禅を組んでたんですが、第一座、妄想すること無かれ、と言ったんですね。

第一座というのは、弟子の中でも最も優れた弟子でしょ。
そのときに第一座が妄想をしていたわけなんです。
それをちゃんと見抜いていたわけです。

心の中がそういうことじゃいかんじゃないかと、座ってるだけで見抜いてるんですね。

それから弟子たちに、今年はわしに一大事なことがある。その時期は今年の秋だ。

第一座、おまえは分かるか。

わしにどんなことがあるか、おまえに分かるか。

すると第一座は分かりませんと。
その秋にどうなったかというと、祖元が死ぬんです。

これは禅に係わらず、弘法大師もそうですね、本年3月21日、寅の刻に死ぬと言ってますね。

死ぬということがちゃんと分かってる。
この無学祖元もそうなんですね。

今年の秋に死ぬということが分かってた。

それでも第一座は誰も分からなかった。

だから誰も分からないですわね。

だからこういう人達は、悟ってるなと、私は思うのです。
これは知識じゃないですね、般若です。想像でもない。

だから 「億劫相別れて瞬時も離れず、尽日相向いて刹那も対せず。」 というのは、こういう人たちのことをいうのです。

禅定の世界を体験したらそれが判る。
それは頭で判るんじゃなくて、体験をすると分かるんですね。


こういう言葉がありますね、「無一物中無尽蔵」。
無一物というのは、からっぽですわね、何も無い。
ところが無尽蔵というのは、いっぱいある。
これも公安ですね。

これはどういうことを言うのかというと、これは世間の話しじゃないんですね、出世間の話しなんです。
色即是空の話しなんです。


『色即是空』

色即是空という般若心経の解説本がいっぱい出てますが、あの色即是空の色を、皆物質と解説してます。
人間でいうと肉体。そういう解釈を皆してます。
が、そうじゃないんです。
あれは、心の中の色なんですよ。
霊魂としての色なんです。
そういう色があるんです。
それを無表色というんです。
だからこの無表色が分かれば仏教が分かると、和尚さんはおっしゃいます。

この色には三つありまして、「有見有対色」、「無見有対色」、「無見無対色」と、こういうふうにお経にちゃんと出てくるんです、阿含経に。

「有見有対色」というのは、我々が目にも見えるし手に触れる、対というのは対立しあうし抵抗するものですね。これは物質です。
作品名:和尚さんの法話 「禅」 作家名:みわ