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和尚さんの法話 「禅」

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だからその鴨の声を聞いたとか、石が竹に当たったとか、そういうときに見性と言ってるように思うんです。

ところが本来の見性という意味は、仏性を意味するんです、見性とは仏性のことなんです。
仏性というのは心なんです。

この仏性というものは、見性といいますが、これは見られるものではないんです。
仏性というのは、絶対的なものなんです。

絶対なるものは、見ることは出来ないし、聞くことも出来ないんです。

相対的なものは我々はとらえることが出来ますけど、絶対的なものはとらえることが出来ない。
だから本当に仏性を見ようと思うと、仏性そのものに成らないと見ることができない。
仏性は絶対ですから、自分が絶対の禅定に入らないと仏性を見たとはいえない。

だから見性というのは、如来様だけが見ることが出来るんです。
阿羅漢でも見性は出来てない。
そういうのは禅定の深い禅定、深般若波羅蜜多ですね。
究極の波羅蜜多というのは如来様しか体得出来ない。

仏の境地は仏でないと分からない。ということです。
一般に見性という言葉を使っているようですが、失礼ですが間違ってると思うのです。

それというのも、霊魂を認めていないというのが根本ですね。
霊魂というのは、霊魂が仏性を持ってるんですよ。
仏性というのは、人も猫も犬も猿も鳥も皆仏性を持ってるんです。だから我々は人間に成り、仏に成ることが出来るのですよね。

ただ業があるから畜生になったり鳥になったり魚になったりしているけれども、その業がだんだん薄れてきたらまず、人間界に生まれてきて修行をして、声聞、縁覚、菩薩と終いに如来になっていく。

そういう如来様が浜の真砂の数ほどあるというんでしょ、お釈迦様一人と違うんです。恒河砂数の諸仏というんですから、浜の真砂の数というのと一緒ですよね。
浜の砂の粒を数えようと思っても数え切れない。それを恒河というんでしょ。
ガンジス川の真砂の数ほどの諸仏が、お釈迦様以前にすでにあると、こういうことですね。


お釈迦様の時代の話しですが、或る人が、お釈迦様の弟子にして戴こうと思って行ったんです。
ところが、お釈迦様のような仏様というのは、後にも先にもお釈迦様お一人が仏様というのならば、何が何でもここでお弟子さんにしてもらわんならんと思ったんですね。

それで、お釈迦様に、仏様というお方はあなた様お一人でございますか、と。
あとにまだ仏様は出てこられますか、と質問をしたんです。

それでお釈迦様は、未来に無数の仏有り。と、お応えになった。

あ、そうか。お釈迦様がお一人ならば、なにがなんでもここでお弟子にしてもらわんならんと思ったけど、あとにまだ無数の仏様がお出でになるのなら、次の仏様、またその次の仏様と、これなら安心だと、坊さんになるのをあきらめて帰ってきた。

その途中にふっと、気が付いて、これから先の仏様は出てくるとおっしゃったけど、過去に仏様はあるのだろうか、お釈迦様が最初の仏様だろうかと、ついでに聞いておこうと思って、また戻った。

先ほどは、未来の仏様は無数の仏様が出てくるとお聞きしましたけど、過去の仏様は如何でございますかと。

すると、過去に無数の仏有りと。
こう言われて、そのときに合点がいったというのか、はっと思ったんですね。

つまり、過去に無数の仏様があるという、一人や二人じゃないんです、恒河砂数の仏様が過去にあるというのです。

そうすると自分は、過去にその無数の仏様に遭ってきたのか、遭ってこなかったのか、現に自分は未だに救われていないと。

そうすると、未来に無数の仏様が出るとおっしゃったけど、その仏様に救うていただけるという保障は無いということになる。

現に過去の仏様に救われてこなかったんだから、ここで何がなんでもお弟子にしてもらわないと救われないと思って、お弟子になったということです。
これは阿含経の中にそういう話しがありますね。

だから法然上人さんもそういうことをおっしゃってますね、自分が救われていないということは、過去に仏様に遭わなかったんだと。

或いは、仏様の時代に生まれ合わせてもお釈迦様に出遭わなかったんだ、一体自分は過去に何をしていたのだろうと。いうお言葉がありますね。

だから本当に救われよう、本当に道を求めようと思ったらそこから考えないといけないということですね。

我々はまだ極楽へ行っていない。ところが阿弥陀様のご誓願は十劫以前に成立してるわけです。
十劫という時間は長いですよね。

一劫という時間を例えますと、160キロ四方の大きい石があって、100年に一度天人が天から降りてきて羽衣でその石をするするっと擦っていく。また100年たって石を擦っていく。そしてその石が擦り減ってしまうと一劫という時間。

そういう例えですね、あまりにも長い時間なので例えるしかしょうがないですね。
その十劫でしょ、まだ十劫というと短いほうですよね、仏教では。
億劫というのがありますね。

然しながら十劫は長いですよね、我々にとっては。

その十劫以前に弥陀の本願は成立しているにもかかわらず、我々はその本願を信じてこなかったという証拠がここにあると。
将来のことはあてにならんと、今この生で決定しておかないとまた救われないと。

またこれからどれだけの輪廻を重ねないと救われるかどうか分からない。

我々がとても般若の境地になって、自力で解脱出来ませんから、弥陀の本願に頼らないと、と私は思うのです。





作品名:和尚さんの法話 「禅」 作家名:みわ