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和尚さんの法話 「禅」

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そして三界は我が足元にあるという気持ちになったそうです。

悟ちとはこういう気持ちなのかと、今まで本で読んでますからね、なんとも言葉では表現がしにくいそうです。

それから続いていろんな変化が起こってきたそうです。
例えば、物を見てましてもふわーっとして角が感じない。丸く感じる。

そう見えるんじゃなく、感じるそうです。
そして恐ろしいということもなくなるし、恥ずかしいということもなくなる。

だから和尚さんは、夜中に寝巻き姿で市中を歩き回ったことがあって、親が心配して、ちょうどその頃は卒業論文があったので、頭にきたかと親が心配したそうです。(笑)

そして無理やり病院へ連れて行かれて、脈を計ると医者がいうと、声が聞こえてきて、おまえの脈を計るというてるので腕を出してやれと。

そして、さあ計るがよいというような態度をしたので、医者が、あなたは偉い寺の息子さんかしらんけど、ここへ来たら患者やと、患者だったら患者らしくせよと。(笑)

そしてまた東京の学校へ戻る。
東京へ行くのに特急へ乗りますが、昔のことですのでその当時は空いてたんですね、その列車の通路に立ったまま禅定をするわけです。

ですから皆がじろじろと見るんですね。
それを30分くらいしてたそうですが、普通だったら恥ずかしくて出来ない。
昔の大学生ですから学生服を着てますね、それを皆が見る。
それでもちっとも恥ずかしくなかったそうです。

それからだんだんと覚めてきて、あのときのはなんだったんだろうなあと、後になって思った。
然し、不思議な体験ですね。

何を言われても、何を聞かれても何でも答えられるんですね、答えがいくらでも出てきたそうです。

そういうことを、この人はここへ書いてあるんだろうと思うんですね。
然しながら、和尚さんもそのときは、それが悟りだと思ったんです。

いろんな本を読むと、例えば二階から落ちたときに悟ったとかね。

一休さんは、座禅をしていたときに池の淵に鴨が鳴いて飛んだ、その声を聞いて悟ったとか、悟りというのはそういうふうに説明されているようです。

然し、和尚さんも一時はそう思ったけれども、違うということです。
悟りということは、無我が分かるということなんです。
無我というのは、我が無いということなんですわね。

これを唯識的に説明をしますと、眼・耳・鼻・舌・身、これは五感ですね、これは意識ですので五識ともいいます。

私たちが聞いたり見たり考えたりするのは、この五識がするわけですね。
禅定の説明をするならば、この五識が全部消える。
消えてしまうんです。
滅してしまうんですね。

すると意識、末那識、阿頼耶識とこの三つだけになってしまう。

この五識が消えて初めて禅定といいます。
五識が消えない間は禅定ではないんです。

だから鴨の声を聞いたというのは、これは耳で聞いてるんですから五識があるわけですわね。

欲界、色界、無色界と、これは三界ですね。

この欲界は禅定のない世界なんです。欲界には禅定が無い。

天上界には六つの天がありますが欲界には禅定が無い。

若し、五識が消えて禅定を体験した人が死ぬと、欲界へは行かない。
色界か、無色界へ行く。

色界に18天ある天上界ですが、この色界には禅定の段階が4つある。

そして無色界にも4つある。
初天、二天、三天、四天と上になるほど上の天に生まれるわけです。

18天ありますから、初天を体験した人は、二天、三天とありますこの何処かへ行けるわけです。

微妙な違いがあるんでしょうね。

初天には三つある。二天にも三つある。三天にも三つあって、四天には九つあるわけです。段階がね。

そういうふうに禅定には段階があるわけです。
それは何が違うかと言いますと、煩悩が違うわけです。

そして無色界の一番上の深い禅定を非想非非想定という禅定を獲得したら、死んだらこの非想非非想天へ行ける。
まだ無想じゃないんですね、ここは。

何かがちょっとだけ残ってる。
残ってる間は、三界を解脱出来ない。

この無色界を出てしまう禅定を滅尽定といいます。
一切の煩悩が滅尽してしまう。

この滅尽定に入って初めて、意識が消えてしまう。
小乗で言うならば阿羅漢ですね、大乗で言うならば菩薩。

我とは意識なんです。
だから意識が消えなければ、無我とは言えない。


次は末那識、これが消えたら如来様に成る。
禅の説明はこういうふうになってるわけです。

無我が分かったら、意識が消すことが出来たら、無明を断じたことになりますから輪廻しない。

これを頭で分かっても、問題は実践ですわね。
今の禅宗の方のおっしゃってるというのは、五識が消えてないですね。
鴨の声が聞こえてたら五識があるわけです。

和尚さんの体験したことも大きな体験ですが、それが悟りじゃなくて、心地開眼という言葉がありますね、心がぱーっと開く。

心境の変化というのでしょうか、とにかくそういう体験はあるんですよね、然しそれは意識が感じてることなんです。

禅定というのは、五識がまず消えて、意識が消えなければ、三界解脱、生死を解脱するような禅定とは言えない。

だいたい仏教学者の方々は霊魂という言葉を嫌がるんですが、識でもいいわけです。

識が不滅だと言ってもいいわけです。

六番の梶山さんの、「しかし仏教はそのような霊魂の存在を初めから否定している。」 という、こういう非常に単純な解説ですよね。

霊魂の不滅と無我とはちっとも矛盾しないんですよ。
空とか無我とか、輪廻とちっとも矛盾しないんですよ。

その微妙なところがお分かりじゃないんですね。

仏教では、世間、出世間という言葉があるんですが、世間というのは、本来の一般の世界で、出世間というのは仏法の立場で真帯というんです。

世間は俗帯といって、世間の人に対していうときは霊魂不滅でいいんだけど、ほんとうの仏教の立場からいうと霊魂は空なんだということが説明してあるわけです。

だから一般の人にいうときは霊魂はあるんだと、だけど、永久に霊魂はあるんだというんじゃなくて、禅定に入ると空になるんだということですが、然し消えるんじゃない、また元に戻るんです。

ですからお釈迦様は禅定に入って、また戻りますね、出たり入ったりします。

禅定にばかり入ったままになると衆生済度ができませんから、禅定に入って戻ってきては衆生済度をした。


『公案』

だから定に入ったら無我になるわけですね。
定から出たら有我になるわけです。
然しながら阿羅漢は煩悩が無くなってますからもう輪廻はしない、こんど死んでも輪廻はしない、三界を出てすっと、上へ行く。
そういうことを現在の禅は無視しているんですね。
そもそも輪廻とか霊魂とか認めないというのが、間違ってる証拠ですね。
花園大学の学長さんで、妙心寺の官長さんをしていた山田無文さんという方に、或る信者の方が、私は母に非常に苦労をかけている。そして母は私のための一所懸命に働いてくれて、そして何も報いずに死んでしまいました。私はどうしたらいいのでしょうか。
と、山田無文さんに聞いたら、山田さんは、もうそんなことは忘れたらいいんだ。と、言ったそうです。
作品名:和尚さんの法話 「禅」 作家名:みわ