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和尚さんの法話 「禅」

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だから経典を頼りにして、経典の何処にそういうことが説いてあるのかと、いうことでなければます論理は始まらないと思うのです。

で、次は霊魂を認めてる一つの証拠です。

大般若経という六百巻の、その中の一節です。
般若経だけじゃなくて、どのお経にも霊魂は輪廻するということを説いてあると思います。

逆に、先ほどの偉い老僧といわれるようなお方が言うように、霊魂は無いし、輪廻もしないということを説いたお経があるなら教えて頂きたいと思います。


七、
若し諸の菩薩、深般若波羅蜜多を毀謗(きぼう)し、厭離(おんり)せば当に知るべし、則ち是れ一切智を毀謗(きぼう)し厭捨するなり。
是の因縁に縁るが故に正法を害する罪を造作し増長す。
此の罪に由るが故に多時を経歴して諸の重罪を受く。
―― 是の如く輪廻し無数劫を経て此の世界彼の世界と往還輪転して解脱することを得ず。

― 大般若波羅蜜多経 ―


「深般若波羅蜜多を毀謗(きぼう)し、厭離(おんり)せば」 というのは、謗(そしる)、そして離れてしまうということですね。

こんなものは、あかんと言うて離れて行く。

そういうことを若しもしたならば、「一切智」 というのは如来様のことです。

仏様を嫌い、離れていくことと同じことなんだと。

般若経はお釈迦様がお説きになったものですわね、だから正しい法だと。

その正しい法を、そんなものは、あかんといって捨てて行く、それはもう同時に仏様を謗ことにもなるんだということです。


「是の如く輪廻し」 ここに輪廻というのが出てきますね。

「無数劫を経て」 長い長い時間 「此の世界彼の世界と往還輪転」 あっちに生まれこっちに生まれして生まれる。

そして、「解脱することを得ず」 と、正法を誹謗するということは大きな罪になるんですね。

これは大般若波羅蜜多経の一節ですが、ところが学者というのはお経に対して、これは本当に仏様が説いたものだろうかという疑いを持つわけです。

この大乗経典というのは、お釈迦様がいらっしゃる間は出てこないですわね、お釈迦様がお亡くなりになって、二百年あたりからぼつりぼつりと大乗経典が世の中へ出てくるね。

だからその頃に製作されたものであると、後の優れた人達が受け継ぎ、聞き伝えたものを頼りにして作り上げていったものだと思ってるんですね。
そういう解釈をなさってるわけです。

大乗経典と、小乗経典と比較する仏教学者の方々は、大乗経典よりも小乗経典のほうを信用する。

信仰とか修行とかいうときは、大乗、大乗と言いますけどね、経典となると大乗は信用が薄くなる。 

主なお経が四つあるんですね、阿含経というお経が、長阿含、中阿含、増一阿含、雑(ぞう)阿含、と四阿含がありまして、これを小乗経典といいます。
この中で一番信用されるのが雑阿含なんですね。

ほかにも説いてますけど、あえて雑阿含をここに持ってきました。

兎に角、こういうお経があるということを皆さんに知って頂きたい。


八、
諸の比丘、彼の無聞の愚癡の凡夫は無明に覆われ愛縁に繋がれ此の身を得るも、身壊命終して還りて復た身を受くるが故に生老病死憂悲苦悩より解脱することを得ざるなり。
―― 衆生有り、無明断じ愛縁尽くるが故に身壊寿終して更に復た受けざるなり。
更に受けざるが故に生老病死憂悲苦悩より解脱することを得るなり。

― 雑阿含経 ―


「諸の比丘、彼の無聞の」 というのは、正法を聞いていない。 ほんとうの仏教を理解出来ていないということです。

「愚癡の凡夫は無明に覆われ愛縁に繋がれ此の身を得るも、」この世へ生まれてきても。
「身壊(しんね)命終して還りて復た身を受くるが故に生老病死憂悲苦悩より解脱することを得ざるなり。」
命が終わってということですから、此の世で死んでということです。

身壊、しんえと書きますが、読むときはしんねと読みます。

死んで身を焼かれて骨になり、灰になり、命が終わって、魂はあの世へ行きますわね、そしてまた生まれ変わってくると、これが後有を受けるということなんですよね。

生まれた限り、いろんな苦しみがありますね、四苦八苦というのがございますが、そういう悩み事にもあうと。

解脱することが出来ない。

「―― 衆生有り、無明断じ愛縁尽くるが故に身壊寿終して更に復た受けざるなり。
更に受けざるが故に生老病死憂悲苦悩より解脱することを得るなり。」

無明ということが出てきますが、般若心経に出てきますね、無明の尽きることも無くというのが、あの無明ですね。

この無明は、輪廻の過程なんですね、無明とは何かというと、無我が分からないということなんです。

無我が分からないということは、無我になれないということです。

仏教で分かるのと、分からないということは、頭で分かるということと、身を持って分かるのがあって、つまり学問として分かるのと、修行として分かるのがあって、違うんですね。

頭で分かるんだけど、実際は出来ないと。

無明というのは、無我になれないということなんです。

愛というのが出てきますが、この愛というのは、愛情の愛というのではないんです。

仏教でいう愛というのは、例外はありますけれども、煩悩なんです。
餓えた人、水が飲みたい水が飲みたいという欲求があるんですね、渇れる状態、餓えた状態、それを愛というんです。

求めても求めても飽き足りないという欲求があるんですね我々の心には、それは煩悩ですわね。

それがあって、生まれて死ぬと。
愛縁があって無明が尽きたならば、輪廻しない。

こういうように、大乗経典にも小乗経典にも輪廻はちゃんと説いてあるんです。
ところが、解釈の仕方が違うんですね。


九、
禅の悟りというものは思うに霊性の復活という事でありましょう。

それには私達が生まれてから此の方覚えた経験や知識の一切を心の中からきれいにさっぱり掃除してしまわないと本当のことは解りません。

それが所謂 「無」 です。「空」 です。「宇宙的無意識」 です。

「禅定」 とは、其の 「空」 の 「無」 の 「無意識」 体験です。

絶対の自己否定の現前 ―― それが禅定です。

真剣に座禅すれば人は必ず座って座ることを忘れ立って立つことを忘れる 「三昧境」 に出ます。


『禅の体験』

「絶対無」 の現前です。 其の時遠寺の鐘の音が 「ゴォーン」 と聞こえるとか本堂の前の真黄色な銀杏の葉が目に入るとかして何かの感覚の縁にふれて其の禅定の三昧境が破れる。

「無」 が爆発して妙 「有」 の世界が開ける。
其の時総てが新しい。 すべては美しい。 すべては光っている。 そして不思議な事にすべてが自己である。

万物と我は一体である。世界と我は不二である。
何度も言うように 「空」 とは 「自他不二」 の体験であります。

― 秋月龍珉 ―


これはこの方のお悟りで、体験をなさったのでしょう。
和尚さんもこれと似た体験をされたそうです。

この方は自他不二とかおっしゃってますが、和尚さんの場合は、天空に聳え立つ大巨人になったような気持ちになったそうです。
作品名:和尚さんの法話 「禅」 作家名:みわ