和尚さんの法話 「禅」
『現在の禅の誤り』
禅のお話でございますが、 「現在の禅の誤りを衝く」 ということで、禅が誤ってるということは、現在の仏教も誤ってるということになると思っている次第です。
禅という言葉は、インドの言葉で禅那と書いて、ジャーナといいます。
このジャーナという言葉を音写しまして、禅那としたわけですね。
そして、それを略して禅となったわけです。
禅を学問的に解説しましたら、精神の統一ですね。
この禅定という言葉がございますが、この定というのは心が統一された常態なんですね。
その反対は、散(さん)。
我々は散心なんですね、散った心。
定心がなかなか得られない。
定というのは精神統一ですが、その定という言葉は、禅の説明した言葉なんです。
禅を説明するとどういうことになるのかというと、定ということになる。
だから禅も定も一緒なんです。
禅のほうは、これは梵語ですわね、定というのは漢語なんですが、ですから禅と言っても定と言っても同じなんです。
何を持って、現在の禅を誤りと言うかといいますと、まずは一番根本的な誤りですね、これはひいては仏教の誤りに繋がっていくわけですが、それは、死後の世界を否定する、来世を認めない、輪廻転生を認めない、ということです。
その認めていないという証拠を挙げないと分からないと思いますので、次に書いてみました。
一、
釈尊自身既に述べた様に 「不受後有」 とはっきり宣言して、自ら 「無霊魂論」 者であることを明かにした。
此の無霊魂論の立場こそが仏教思想と正統インド思想とを分かつ仏教の一大事である。
― 秋月龍珉 ―
これは、秋月龍珉という人の書いた文章の中の一節です。
「不受後有」 というのは、後有を受けずということなんですが、この後有をこの秋月さんはとり間違ってると思いますね。
後有を受けずというのは、後の生を受けないという意味なんですが、後の生を受けないというのは、もはや輪廻してこないということであって、霊魂を否定している言葉じゃないんですよ。
解脱するから輪廻してこない、もうこの世には生まれてこないと、こういう意味なんです。
ところが、この秋月さんという人は、後有を受けないから霊魂は無いという意味なんだと、この人は解釈してるんですね。
この秋月さんという人は、禅宗の方だと思うのですが、略歴が出てますので紹介をしますと、1991年宮崎県に生まれ、東京大学文学部哲学科卒業。
そして宮田とうみん老師という禅宗の老師ですが、老師というんだから悟ったということになってる人です。
その人に仕えて、印可を受けた。
悟ったという証明を受けたということです。
禅宗の中では、印可を受けるということは、お釈迦様と同じで悟ったということなんだそうです。
これはどうかと思いますが、お釈迦様の悟りと、自分の悟りと同じなんだというんですね。
自分も仏なんだと、こういうお考えなんですね。
「釈尊自身既に述べた様に 「不受後有」 とはっきり宣言して、自ら 「無霊魂論」 者であることを明かにした。」
と、ありますが、これは非常に皮相的な解釈ですね。
後有を受けずという言葉が霊魂を認めないんだと、お釈迦様はそう宣言してるんだと、この秋月さんがおっしゃるんです。
これは霊魂を認めてないですね。
この人は、間違いだらけの仏教という本を出していますが、この人の解釈が誤解だらけですね。
こういうことを言うと、ご批判もあろうかと思いますが、間違いを正すということですので、ご了承を戴きたいと思います。
二、
道元禅師は ―― 凡そ身と心とを分けず、身心一如なものと説き、性と相とは不可分なもので性相不二と説くのが真正の仏法である。
既に身心一如性相不二であるからには死んで身と相とが滅びれば、心と性とが相伴って滅びるのは当然のことである。
それを身相、乃ち肉体が滅びても 「心独り身を離れて滅びず」 と、霊魂だけは死後も存在すると説くのは全く仏法に反するものである。
凡そ仏教者たる者は此のような外道の邪説、狂人の妄言に耳を傾けてはならない、と強く説いておられる。
― 芳賀洞然 (人間禅教団師家) ―
これは、自分の考えを道元禅師の言葉によって裏付けてるわけですね。
道元禅師の言葉を集めた本がありまして、その一節を抜き出したものですが、次のこの文章も、道元禅師の言葉として、こういう場所もあると。
三、
若し、人有りて此の生に五無間業を造れる、必ず順次生に地獄に落つるなり。
順次生とは此の生の次の生なり。 ―― 人有りて此の生に或いは善にもあれ或いは悪にもあれ、造作し畢(おわ)れりと雖も、或いは第三、或いは第四生、乃至百千生の間にも善悪の業を感ずるを順後次受業 (順不定業) と名づく。
― 道元 (正法眼蔵) ―
五無間業というのは、父を殺す、母を殺す、阿羅漢を殺す、仏教教団を破壊する、仏身出血、という五無間業というのがありますね、最大の業が五つあるわけです。
この罪を一つでも犯したら永久に救われないというほどの重い罪なんですが、それを犯したとして、順次生というのは、死んであの世のことを言うんです。
それを道元禅師がお使いになってる。
「必ず順次生に地獄に落つるなり」 と、地獄を認めてらっしゃいます。
「順次生とは此の生の次の生なり」 分かり易く言えば霊界のことですね。
「或いは第三、或いは第四生、乃至百千生の間にも善悪の業を感ずるを順後次受業 (順不定業) と名づく。」
と、犯してしまった業は何遍生まれ変わっても、必ず出てくるんだといってるわけです。
二、と三、は道元禅師のお言葉として出てるんですが、矛盾があるんですね。
四、
AとかBとかいう霊魂が、縫い針が布を縫って通るように、あっちに生まれこっちに生まれてと特定の業を代々に亘(わた)って引き継いで行くということは信じられません。
― 朝日奈宗源 ―
この朝日奈という人は、円覚寺の元官長さんで、老師ですね。
そして、日本仏教会の会長もなさってたお方です。
仏心という本をお書きになってるんですが、その中に出てくる言葉を書きました。
五、
AとかBとかいう個別的な霊魂があって、その霊魂が善や悪の業の報いを荷って時間へだたりを持ってあっちに生まれこっちに生まれて所謂輪廻を繰り返すという考え方には賛成出来ません。
― 朝日奈宗源 ―
六、
霊魂というものもそうである。
私の肉体が死んでも生き続けるものが霊魂であると信じられている。
それも自律的で変化しないで永遠に続く単一なるものである。
しかし仏教はそのような霊魂の存在を初めから否定している。
それが無我ということの意味である。
― 梶山雄一 ―
この方も有名な仏教学者です。
無我だから、空だから霊魂は無いんだと、非常に単純な理解のしかただと思いますね。
次は、霊魂も認めてるだ、輪廻も認めてるんだと言いましても、これも証拠がいります。
我々が一番証拠とするのはお経なんです。
お釈迦様はもういらっしゃらないんだから、直々の立派なお弟子さんもいらっしゃらない、残ってるのは経典なんです。
禅のお話でございますが、 「現在の禅の誤りを衝く」 ということで、禅が誤ってるということは、現在の仏教も誤ってるということになると思っている次第です。
禅という言葉は、インドの言葉で禅那と書いて、ジャーナといいます。
このジャーナという言葉を音写しまして、禅那としたわけですね。
そして、それを略して禅となったわけです。
禅を学問的に解説しましたら、精神の統一ですね。
この禅定という言葉がございますが、この定というのは心が統一された常態なんですね。
その反対は、散(さん)。
我々は散心なんですね、散った心。
定心がなかなか得られない。
定というのは精神統一ですが、その定という言葉は、禅の説明した言葉なんです。
禅を説明するとどういうことになるのかというと、定ということになる。
だから禅も定も一緒なんです。
禅のほうは、これは梵語ですわね、定というのは漢語なんですが、ですから禅と言っても定と言っても同じなんです。
何を持って、現在の禅を誤りと言うかといいますと、まずは一番根本的な誤りですね、これはひいては仏教の誤りに繋がっていくわけですが、それは、死後の世界を否定する、来世を認めない、輪廻転生を認めない、ということです。
その認めていないという証拠を挙げないと分からないと思いますので、次に書いてみました。
一、
釈尊自身既に述べた様に 「不受後有」 とはっきり宣言して、自ら 「無霊魂論」 者であることを明かにした。
此の無霊魂論の立場こそが仏教思想と正統インド思想とを分かつ仏教の一大事である。
― 秋月龍珉 ―
これは、秋月龍珉という人の書いた文章の中の一節です。
「不受後有」 というのは、後有を受けずということなんですが、この後有をこの秋月さんはとり間違ってると思いますね。
後有を受けずというのは、後の生を受けないという意味なんですが、後の生を受けないというのは、もはや輪廻してこないということであって、霊魂を否定している言葉じゃないんですよ。
解脱するから輪廻してこない、もうこの世には生まれてこないと、こういう意味なんです。
ところが、この秋月さんという人は、後有を受けないから霊魂は無いという意味なんだと、この人は解釈してるんですね。
この秋月さんという人は、禅宗の方だと思うのですが、略歴が出てますので紹介をしますと、1991年宮崎県に生まれ、東京大学文学部哲学科卒業。
そして宮田とうみん老師という禅宗の老師ですが、老師というんだから悟ったということになってる人です。
その人に仕えて、印可を受けた。
悟ったという証明を受けたということです。
禅宗の中では、印可を受けるということは、お釈迦様と同じで悟ったということなんだそうです。
これはどうかと思いますが、お釈迦様の悟りと、自分の悟りと同じなんだというんですね。
自分も仏なんだと、こういうお考えなんですね。
「釈尊自身既に述べた様に 「不受後有」 とはっきり宣言して、自ら 「無霊魂論」 者であることを明かにした。」
と、ありますが、これは非常に皮相的な解釈ですね。
後有を受けずという言葉が霊魂を認めないんだと、お釈迦様はそう宣言してるんだと、この秋月さんがおっしゃるんです。
これは霊魂を認めてないですね。
この人は、間違いだらけの仏教という本を出していますが、この人の解釈が誤解だらけですね。
こういうことを言うと、ご批判もあろうかと思いますが、間違いを正すということですので、ご了承を戴きたいと思います。
二、
道元禅師は ―― 凡そ身と心とを分けず、身心一如なものと説き、性と相とは不可分なもので性相不二と説くのが真正の仏法である。
既に身心一如性相不二であるからには死んで身と相とが滅びれば、心と性とが相伴って滅びるのは当然のことである。
それを身相、乃ち肉体が滅びても 「心独り身を離れて滅びず」 と、霊魂だけは死後も存在すると説くのは全く仏法に反するものである。
凡そ仏教者たる者は此のような外道の邪説、狂人の妄言に耳を傾けてはならない、と強く説いておられる。
― 芳賀洞然 (人間禅教団師家) ―
これは、自分の考えを道元禅師の言葉によって裏付けてるわけですね。
道元禅師の言葉を集めた本がありまして、その一節を抜き出したものですが、次のこの文章も、道元禅師の言葉として、こういう場所もあると。
三、
若し、人有りて此の生に五無間業を造れる、必ず順次生に地獄に落つるなり。
順次生とは此の生の次の生なり。 ―― 人有りて此の生に或いは善にもあれ或いは悪にもあれ、造作し畢(おわ)れりと雖も、或いは第三、或いは第四生、乃至百千生の間にも善悪の業を感ずるを順後次受業 (順不定業) と名づく。
― 道元 (正法眼蔵) ―
五無間業というのは、父を殺す、母を殺す、阿羅漢を殺す、仏教教団を破壊する、仏身出血、という五無間業というのがありますね、最大の業が五つあるわけです。
この罪を一つでも犯したら永久に救われないというほどの重い罪なんですが、それを犯したとして、順次生というのは、死んであの世のことを言うんです。
それを道元禅師がお使いになってる。
「必ず順次生に地獄に落つるなり」 と、地獄を認めてらっしゃいます。
「順次生とは此の生の次の生なり」 分かり易く言えば霊界のことですね。
「或いは第三、或いは第四生、乃至百千生の間にも善悪の業を感ずるを順後次受業 (順不定業) と名づく。」
と、犯してしまった業は何遍生まれ変わっても、必ず出てくるんだといってるわけです。
二、と三、は道元禅師のお言葉として出てるんですが、矛盾があるんですね。
四、
AとかBとかいう霊魂が、縫い針が布を縫って通るように、あっちに生まれこっちに生まれてと特定の業を代々に亘(わた)って引き継いで行くということは信じられません。
― 朝日奈宗源 ―
この朝日奈という人は、円覚寺の元官長さんで、老師ですね。
そして、日本仏教会の会長もなさってたお方です。
仏心という本をお書きになってるんですが、その中に出てくる言葉を書きました。
五、
AとかBとかいう個別的な霊魂があって、その霊魂が善や悪の業の報いを荷って時間へだたりを持ってあっちに生まれこっちに生まれて所謂輪廻を繰り返すという考え方には賛成出来ません。
― 朝日奈宗源 ―
六、
霊魂というものもそうである。
私の肉体が死んでも生き続けるものが霊魂であると信じられている。
それも自律的で変化しないで永遠に続く単一なるものである。
しかし仏教はそのような霊魂の存在を初めから否定している。
それが無我ということの意味である。
― 梶山雄一 ―
この方も有名な仏教学者です。
無我だから、空だから霊魂は無いんだと、非常に単純な理解のしかただと思いますね。
次は、霊魂も認めてるだ、輪廻も認めてるんだと言いましても、これも証拠がいります。
我々が一番証拠とするのはお経なんです。
お釈迦様はもういらっしゃらないんだから、直々の立派なお弟子さんもいらっしゃらない、残ってるのは経典なんです。
作品名:和尚さんの法話 「禅」 作家名:みわ