和尚さんの法話 「安楽死と後生」
お釈迦様は天眼通を持っておるので、絶えず今誰が一番助けなければならないかと観てるというのですね。
そしてその物すぐに救うてくれる。
「爾時世尊、霊鷲仙に在って天耳を以て遥かに父王、及び諸王の声を聞き、天眼を以て遥かに父王の病臥して床に著き命の將に終らんとするを見る。是に於いて世尊、即ち禅定を以て身を虚空に処して忽然として迦維羅衛に現じ給う。」
禅定に入って、霊魂が肉体から抜けるんです。
天眼通、天耳通、宿命通、他心通、神足通、と空を飛んで何処へでも飛んで行く。
だから肉体じゃないんです、霊魂が肉体から抜けるんですね。
それからもう一つは、漏尽通、これを六神通というんです。
これは仏様でなくても、阿羅漢に成りましたらこの六神通が得られる。
つまり、三界を解脱したら六神通は自ずから備わってくるんです。
この漏尽通の漏というのは、煩悩のことなんです。
三界にある間は、その一番上の非想定という天があるんですが、想に非ず、悲想に非ずと、然しながら煩悩がかすかに残ってる。
それを消してしまったら阿羅漢に成って六神通というのを得る。
舎利弗、目連も皆がそうなんですね。
ここで、お釈迦様のお父様は亡くなるんですが、お釈迦様の放つ光明によって苦痛は和らぐんですね。
だから安らかに息を引き取るんですね、それまでは七転八倒してたんですね。
それをお釈迦様の光明を受けて安楽に、それこそ安楽死ですね。
五、
「譬えば人有りて勇健多力なるも、毒箭のあたる勇猛も所一切の勇猛も皆悉く催減するが如く大王、一切の衆生の剛強なるも死箭の中る所復力無く、救護なく帰する所なく、逃避する所無し。
命終わらんとするに臨み支節解く時血肉枯渇して心熱悩し、焦渇の逼る所口張大息し、六根閉塞して手足粉乱して堪能する所なく、延涕交流して大小便痢は身体を汚し、喘息愈激しく良医も手を抜き諸の妙薬も益無し。
只床枕に臥して後生に趣くに臨み苦痛すること極まり無し。
余命いくばくも無く業力の故に甚大なる怖畏(ふい)、苦痛現前して閻魔の使来たりて黒闇の呑む所となる。
出息、入息最后に將に滅せんとす。
其の時に当りて異の救護なく逃るる術復た無し、只正法を除くのみ。
彼其の時に臨みて唯、正法有りて能く救護を為し、能く衆生を導きて生死の苦を出でしむ。」
― 如来示教將軍王経 ―
將軍王という王様があって、その王様に対して説いてるお経があって、その一部分です。
これは例えを書いてるんですが、死箭(しや)という矢が刺さったら、もう遁れるところが無い。
普通の矢なら傷ですむけれども、死箭という矢が飛んできたらもう避けようがない。
「命終わらんとするに臨み支節解く時血肉枯渇して心熱悩し、焦渇の逼る所口張大息し、六根閉塞して手足粉乱して堪能する所なく、延涕交流して大小便痢は身体を汚し、喘息愈激しく良医も手を抜き諸の妙薬も益無し。」
と、いうのは死病にかかったら如何に苦しいかということですよね。
「余命いくばくも無く業力の故に甚大なる怖畏(ふい)、苦痛現前して閻魔の使来たりて黒闇の呑む所となる。」
これは悪い人が死ぬときはこうだといってるんですね。
善人が死ぬときは、楽ですわね。
ところが、世の中したい放題、悪の限りを尽くした人は、こういうふうに七転八倒して死ぬ。
「其の時に当りて異の救護なく逃るる術復た無し、只正法を除くのみ。」
只、効くのは仏法だけしかない。
これは死後の冥福のための話しです。
「彼其の時に臨みて唯、正法有りて能く救護を為し、能く衆生を導きて生死の苦を出でしむ。」
然しながら楽にもなれるんですね。
『観無量寿経』
六、
「仏、阿難及び韋提希に告げたまわく、下品下生とは、或いは衆生有りて不善の業たる五逆罪を作りて諸の不善を具す。
此の如きの愚人悪業を以ての故に応さに悪道に堕して多劫を経歴して苦を受くること罷(きわま)り無かるべし。
此の如き愚人、命終る時に臨んで善知識の種々に安慰して為に妙法を説き、教えて仏を念ぜしむるに遇わん。
此の人苦に逼められて仏を念ずるにいとまあらず。
善友告げて言く、汝、若し念ずること能わずんば応さに無量寿仏と称ずべし。
是の如く至心に声をして絶えざらしめ、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。
仏名を称するが故に念々の中に於いて八十億劫生死の罪を除く。
命終の時に金蓮華を見る、猶し日輪の如くして其の人の前に住するを見、一念の頃の如くに即ち極楽世界に往生することを得。」
― 観無量寿経 ―
五逆罪というのは、親を殺してしまうというような罪ですね。
命終わるときに、仏法に心得の有る人が仏を念じるように教えるんですね。
心に仏様のお姿を思い浮かべよと。
ですが、とても苦しくて心に仏様を思うということを出来ない。
そこで、無量寿仏とは、阿弥陀様のことですから南無阿弥陀仏と称えなさいというわけです。
「仏名を称するが故に念々の中に於いて八十億劫生死の罪を除く。」
仏教では、これが一番大事なんですね。
南無阿弥陀仏と称えさせて頂いて、そして罪を滅ぼして頂いて、そして冥福。
この場合は極楽往生ですけれども、最高の冥福ですわね。
過去に於いて八十億劫という長い時間の生死を繰り返してきてるわけです。
その間に犯してきた罪を除いて頂くのです。
臨終の一念は平生の百年の業にも勝るという言葉がありますね。
この臨終の時の一念というのが大切なんです。だから正念場というのです。
それは正念でなければ出来ないことだから、此の人は正念であるから称えることが出来たわけです。
苦痛はあったけど、ちゃんと判断が出来たから。これは正念なんですね。
正念を失ってしまうと、どんなに人がこうしなさいと言うて指導しても出来ない。
正念場というのは、この臨終のときの正念をいうのです。
このお経は阿弥陀経ですから、本来は阿弥陀様、観音様、勢至様と、ご眷族方がずーっと、お迎えに来て下さる。
観音様が蓮の台を持ってお迎えに来て下さるんですわね、此の人は下品下生で蓮の台だけしか見えてない。
ですけども、その蓮の台へ乗って、極楽へ往生させて頂くというのですから、けっこうなことですよね。
我々には通力というものを持っていないけど、仏様の通力を真心如何によっては、それをお借りすることが出来る。
だから、お医者さんがもうだめだ、助からないとおっしゃっても、仏様の目から見てまだ寿命がある、業が決定していないという場合は、お願いをすれば、安楽に死なせて戴けるし、助かるという可能性が残ってるわけです。
もう助からないというときに、お地蔵様でも、観音様でも、一所懸命にお願いをして、どうぞ命があるものなら助けて下さいと、若し命の無い場合には安らかに引取らせてくださいと、自分のためにじゃなくて、その病人さんのために祈ることですね。
そしたら、ひょっとしたら助かるかもわからない。
そうなるためには、真心を込めて真剣に祈らないといけないし、功徳も積まないといけませんね。
作品名:和尚さんの法話 「安楽死と後生」 作家名:みわ