和尚さんの法話 「安楽死と後生」
観音様は質問するという場面がございます。
三悪道は死後の世界ですよね、それの方が大事なんですね。
お経にもそう説いてあるわけです。
本人の病気のために、本人さんの舎宅、財物、衣服を以て地蔵の形像を塑画して祈るからと、聞かす。
或いは見せる。
本来だったら死んでいくんだけれども、今のこの功徳によって、病気が治って、しかも寿命が増すということです。
こうお経に説いてあるんだから信じるということが大事ですね。
「悪趣に堕すべき者ならんも」
何処へ落ちて行くか分からん、それを助けてもらう、そのほうが大事なんです。
冥福。冥途の幸福ですね。冥福をお祈り致しますと言いますね。
お経もそれを中心に説いたお経ですけれども、其の中に助かって命が増すと。
本来なら死ぬところでも、更に長生きするというふうな箇所がありますからね。
だから、うっかり安楽死というのも考え物だなと思うのです。
お医者さんはもう助からんといった人でも、和尚さんがご祈祷して助かった人が現にありますから。
それは和尚さんが治したんじゃない、お地蔵様が治して下さるのです。
それを祈る人の真心も通じたんでしょうね。
二、
「若し衆生有りて身心に苦を受けて衆病の持する所ならんも、能く地蔵菩薩の名号を称せば、身心の苦悩皆悉く除癒して安楽に住せん。」
― 地蔵菩薩本願経 ―
これも、病気も治るということですね。
三、
「時に提婆達多、病を得て仏所服の薬を服せんと欲す。
即ち耆婆の所に行きて曰く「吾に仏所服の薬を与えよ」と。
耆婆曰く「世尊の服し給う此の薬は余人の服するところに非ず」と。
耆婆語りて言く、「若し吾れに与えざれば当に汝を害すべし」と。
爾の時耆婆薄命を恐るるが故に即ち之を与う。
提婆達多乃ち此の薬を服するを以ての故に重病を得て身心共に苦痛する事極まりなし。
乃ち此の念を作す。「吾れ今日の如き救う者有る事無し。只独り如来のみ有り」と。
爾の時世尊提婆達多の心念を知り、身に施薬の光明を出し以て提婆達多を照らして一切の苦痛速やかに休息せしめ給う。」
― 四分律 ―
この提婆というのは、お釈迦様の眷属ですね。
自分も仏のようになりたいという野望を持ってたわけです。
耆婆というのは、お釈迦様のお抱えのお医者さんですね、お釈迦様のお弟子さんですね。
その耆婆に、仏様でなければ飲んではならん薬を、わしにも飲ませよと言うてせがんだわけです。
耆婆は、あなた方には差し上げるわけにはいきません。
提婆は、若し与えてくれないのなら殺してしまうぞと、脅迫したわけですね。
そして飲んだわけですが、仏様にはちょうどいい薬でも、提婆のような凡夫には効きすぎたんです。
飲んだらあかんと言うのに、飲んで病気を起こしたんですね。
この提婆は、平素はかったるいことばっかりして、困ったらお釈迦様の所に行くわけです。
さあ、困ったと思ったんですね。
それをお釈迦様は提婆の心を読み、今提婆はこういう苦しみがあり、こういうことを考えているなということを、ちゃんと観ておられて光明を出して提婆の苦痛を和らげたんですね。
『業決定でなければ助かることもある』
今の新興宗教のなかに手をかざしてお浄霊というのがありますね、あれは自分がやってると思ってるでしょうけど、そうじゃない。
その宗教の神さんがするに違いない。
仏教にもお加持というのがあるわけです。
それはする人に問題があるわけですが、それはけっして迷信じゃないですね。
とくに真言宗は祈祷もするし、お加持というのもありますね。
だからお医者さんが助からんと言っても、助かる場合もあるわけです。
それをお医者さんは奇跡ですねえということになるのでしょうけど、仏教では業決定でなければ助かることもある。
業決定は転じ難しということがございますよね、もう決まってる。
大怪我をする。
死ぬばっかりじゃありませんね、死ぬということが決まってる、大怪我をするという災難に遭うということが決まってる。
兎に角、決定というのは決まってるということなんです。
今のこれは死ぬか生きるかという問題ですから死ぬという決定してる人は、これはもうだめですね。
決定率が100%という場合ですね、決定というのは。
これはお釈迦様も自分も出来ないとおっしゃってるんだから。
縁無き衆生は度し難し、一切衆生は救い難し、業決定は転じ難しと、この三つは出来ない。
決定してるのかしていないのか、それは我々には分からないんだから、してないと思って一所懸命に助かると思って努力する。
そして助からん場合には仕方が無いが、決定でなければ助かる見込みはある、とこういうことですね。
四、
「一時仏王舎城耆闍崛山に住し大比丘衆と倶なりき。
時に舎衛国王名を浄飯と曰う。
時に重病を破り四大同時に倶に作して其の身を迫めて支節解かんとす。
喘息復た定まらず。病に随って薬を授け種々治療するも更に益無し。
瑞応已に至って將さに死せんとして久からず。
時に王、煩躁、転倒して停らざる事少水の魚の如し。
白飯王、浄飯王に申して世尊は王舎城耆闍崛山中に在して此処を去る事五十由旬なり。設い使を出すも遲晩して益なからん」と。
浄飯王曰く「我が子成仏して天眼徹視し天耳洞聽し如意自在なり。世尊は昼夜常に天眼を以て衆生の応さに化すべき者を観ずること母の子を念ずるが如し。」と。
爾時世尊、霊鷲仙に在って天耳を以て遥かに父王、及び諸王の声を聞き、天眼を以て遥かに父王の病臥して床に著き命の將に終らんとするを見る。是に於いて世尊、即ち禅定を以て身を虚空に処して忽然として迦維羅衛に現じ給う。
世尊即ち十力四無畏、十八不共の法を以て大光明を放つ。更に復た三十二相、八十種好を以て大光明を放つ。光、王の身を照らし、患苦、安きを得たり。」
― 仏説浄飯王般涅槃経 ―
四大というのは、四原則ですね。
仏教では、地水火風と、これを地大、水大、火大、風大と、それを四大と、これを物質の四原則といいます。
我々の身体はこの四原則からなってるという考えなんですね。
だからこの四大が順調にしてる場合は健康なんです。
その四大が不調になると、調和が破壊されてくると、我々も病気が起こってくる。
例えば、水大がなにか変化を起こしてきたら、身体に水分が溜まってくるとかね。
そういうふうにそれを四大不調というんです。
だから病気が起こるというのは、まず四大が調和を欠いてくるということです。
「時に王、煩躁、転倒して停らざる事少水の魚の如し。」
この浄飯王は、お釈迦様のお父様ですね、病気になって苦しいから魚のように跳ね上がってるということです。
そのときお釈迦様は遠くにいらっしゃるのですね。
ですから知らせにいっても、お釈迦様が帰ってきたころにはお父様はお亡くなりになってると、いうことになってくる。とても間に合わない。
『安楽死』
「浄飯王曰く「我が子成仏して天眼徹視し天耳洞聽し如意自在なり。世尊は昼夜常に天眼を以て衆生の応さに化すべき者を観ずること母の子を念ずるが如し。」と。」
作品名:和尚さんの法話 「安楽死と後生」 作家名:みわ