和尚さんの法話 「安楽死と後生」
江戸時代の頃の出来事で、信仰実話全集という昔の坊さんとか、神官とかの信仰の有様を書いたのがあって、その中に、或る長者の娘さんが病気になりましてね、そして何処へ頼んでも治らないんです。
あらゆるご祈祷もしたんですけど、それでも治らない。
何処へ行っても治らないので、禅宗の寺へ頼みに行ってもご祈祷はしてくれまいと思ったけど、もう何処へも頼むところがないので、或る禅宗の坊さんがあって、そこへ頼みにいくんです。
こういう状態で、なんとかなりませんかと。
そのためには、財産は無くなってもかまわないからと。
そうかわかった、わしに任せよ。
そしてそこの家へ行くんですね。
そしてその娘さんに、おまえは安らかに死ねと、そしてわしと約束をしなさいよというんです。
お父さんは、どんな約束ですかと。
本山へ米や金、こういう寄付をせよというわけです。
はい、わかりました。
そして娘さんに、安心して死ねよ、お父さんはおまえのために、これだけのことをしたんだから何も心配することはいらん、安らかに死んでいけと。
これを聞いた親はかんかんに怒って、治してくれと頼んだのに、とるものだけとっておいて死ね、死ね、死ねとは。
ところがその病気は治ったんです。
親がお寺の本山へ供養したその功徳を受けて治ったんです。
坊さんは、わしが一人でするんじゃないんだと、本山がするんだと。
本山には世の中のためになるような弟子が大勢居るんだと、そういう者のためにも米や金が必要である。
その供養で、大きな功徳を受けて病気が治ったんだと。
こういう例があるんです。
ですから、祈ることも大事ですが、祈りながら神仏に功徳も積まないといけません。
仏教では、し難ければ、し難いほど功徳があるんです。
精神的にも、物質的にも、肉体的にも、し難ければ、し難いほど功徳があるんです。
ですから、あの世では肉体がありませんから生活に不安が無い。
だから悪いことをしなくてもいいんですね。
悪いことはしなくていいので、善いことばっかりする。
どんどん修行をして、するのがあたりまえで、しないとどんどん遅れて行く。
あの世へ行ったら怠けるのがおかしいんです。
そういうところで少々善いことをしたって、なかなか功徳にならない。
ところが、此の世というところは善と悪とが争ってるところでしょ、善いことはなかなかし難い、悪いことはし易い。
そういう善いことをし難いから、あの世の功徳よりも、此の世の功徳は大きいんです。
なんでもそうですわね、楽なことはし易い。
ですから仏教では、あの貧者の一灯でもわかるように、長者は万灯を出して供養をするよりも、貧者が一灯を供えた方が、功徳は遥かに大きいというのは、その貧者にとってはその小さい灯明の油を買うのに大変な苦労だったわけでしょ。
買うお金が足りないので自分の髪の毛まで切って売っても、まだ足りないということですよね。
長者は自分のポケットマネーというようなもんでしょ、だからし易いですよね。
金額は長者のほうが問題にならないほど大きい。
然しながら質は違いますね。
長者にとっては楽な万灯だけれども、貧者は身を削るような思いをして出したお金で得た油ですね、だから功徳があるんです。
だからこの世で功徳を積むと大きな功徳になるわけなんです。
あの世へ行ったら皆働いてるから少々功徳を積んでも少ない。
この世は悪いことが多いでしょ、大きく儲けようとしたら何か悪いことをしないと、真面目なことをやってたらなかなか儲からんということになる。
せっかくこの世へ生まれてるんですから、機会があれば、出来ないことは出来ないけれども、なるべく功徳を積ませて頂くと、そうすれば死ぬべき病人も治る。決定してなかったら治る。
ひん死の状態で、あと幾日と言われた人も、治った方が何人かいます。
楽に死なせて戴けると思って祈ったけど、助かった例もありますから。
だから諦めないということですね。
お医者さんは助からんというのであれば、もう神仏に頼むよりしょうがないですね。
業決定の場合は、これはもうどうすることも出来ないですけど、祈った功徳は本人さんも祈った人もその功徳はあの世へ持っていけますし無駄にはならない、仏教では無駄というのは無いんです。
ですので、祈りによって痛みを和らげたり、本来死ぬべき者が助かる余地があるということですから、だから祈るということは大事なんです。
これを強調したいわけです。
祈ることによって、安楽死になるかもしれませんけど、助かるということもあるということです。
祈ることによって、お地蔵さんでも観音さんでも身体の中へ入ってきて治療してくれるんです。
『天眼通』
天眼通というのは、顕微鏡みたいなもんと違うんです、はるかによく見える。
遠い所のものでもここにあるように見える、不思議ですね。
天耳通は遠くで話ししてるのが、ここで話ししてるように聞こえる。
時間と空間を超越するんですね。
そういうのが我々霊魂に備わってる。
それが発揮できるか出来ないかというだけの問題で。
それは、信仰が進み、行が進んで煩悩が希薄になって、どんどん境地が上っていって声聞、縁覚、菩薩、仏と、上っていくに従ってそういう能力も付いてくるわけです。
そういう能力を得ようと思って修行をするのは邪道だと思います。
余談になりますが、よく皆さんが、自分はこの世へなんのために生まれてきたんだろうかと、なにか目的があって生まれてきてるんじゃないのだろうか、と思うとおもうのですが、あの世では、此の世へ生まれてくるまえに、そういう目的を持ってるんですが、生まれてくるとそれを忘れています。
例えば、お経にあるんですが、自分は坊さんに生まれたいと、ところが地位のあるところへ生まれてもなかなか坊さんになれない。
と、いって低いところへ生まれてもなかなかなれないし自分は中階級のところへ生まれたいという、生まれるまえの話しですが、そして生まれてくるというんです。
そして相談を受けた方が上から一所懸命に指導をするんです。
そういうお経があるんです。
そういうことが多いにあると思うんです。
自分は生まれたときに記憶がありませんけれども、こうしたいと思うと、あの世から指導をして頂く。そういうことがよくあります。
例えば、可愛そうな子供を持った母親がありますが、なんでこんな、と子供のことで悩んでね。
それは因縁かもわかりませんよ、わかりませんが、あの世かたこの世へ生まれてくるときになにか経緯があって、此の世へ生まれたら罪滅ぼしのために可愛そうな子供のために母親となって功徳を積んで、積み滅ぼしをさせていただきたい、だからそういう子供を授けて下さいと。
そして上から指導をしてもらって、そういう使命を持って生まれてきてるのかもわかりませんよと、いうことです。
了
作品名:和尚さんの法話 「安楽死と後生」 作家名:みわ