デンジャラス×プリンセス
ニカっと凶暴に犬歯を剥きだし、ジャムカが鼻歌交じりに兄ちゃんに歩み寄っていく。「ひいッ!」と兄ちゃんは情けない声を漏らすと、四つん這いの体勢ですぐさま逆方向へと逃げ出そうとした。しかし恐怖と焦りからか、挙動が覚束ない。結果、あたふたと、みっとめなく手足をばたつかせた挙句、足元を泥に滑らせてしまい、地面に無様に這いつくばる。
「へっへっへェ! おいいいいいいいいいぃぃッ! どうした、どうしたァ! 早く逃げろォ! ほらァ! ひゃは! ひゃは! ひゃッはァあっ!」
激しく動揺する兄ちゃんをなぶるように、ジャムカが少しずつ、少しずつ互いの距離を詰めていく。そんな兄ちゃんを見るに堪えず、サーシャは動かない体で、必死に声を張った。
「兄ちゃん……っ。なに、してんのよ……。さっきまでの……威勢は……どこ、いったのよ……」
「うう……っ! だ、ダメだ……。ダメなんだよ……。やっぱり……。オレは、あいつには……勝てないんだあ……っ」
兄ちゃんの内心がそのまま映し出されているかのような、ひどく情けない声。
「アンタ……悔しくないの……。大切な人を殺した男が、目の前にいるのに……。それなのに……なにも、しないで……逃げだす、って、いうの……?」
魔力が失われたせいか、それとも敵の魔導の効果なのか、痺れるように鈍ってきた意識で、それでも何とかサーシャは掠れ声を兄ちゃんへ送った。しかし必死のサーシャの言葉も今の兄ちゃんには届かず、まるで駄々をこねる子供のように頭を激しく左右に振りまわす。
「勝てないだ……。だって、勝てないんだよ……。オレは……。あいつには勝てないんだ……。一生懸命に訓練した……。強くなったつもりだった……。でも、やっぱりダメだった! 全然歯が立たなかった……っ」
「なに、いってんのよ……。まだ、勝負は……ついてないじゃない……」
「無力なんだッ! オレは……無力なんだよ……。あいつに、すべてを奪われ……。パティの仇を……取ることすらできなくて……」
ついに、ぽろぽろと大きな瞳から涙をこぼしはじめてしまう。そんな兄ちゃんを不安定に揺れる視界に捉えながら、サーシャはさらに意識を奮い立たし、声を飛ばす。
「甘えてるんじゃないわよ……ッ! アンタは相手より何より……まず自分に負けてるのよ……。自分に勝てない人間が……どうして相手に勝てるっていうのよ……」
「そんな問題じゃない……。そう決まっているんだ。オレは、あいつに勝てないようになっているんだ」
「諦めちゃ、ダメ……。自分に、負けるな……。どんなに……辛くても……。苦しくても……。自分にだけは、絶対に……負けるな……」
「違うッ! これは運命なんだッ! オレがあいつに負けるのは運命なんだッ!」
「ふざ……けんなッ! 何が、運命だ……ッ! そんな都合のいい言葉で逃げるなっ! 勝てないのは……誰のせいもでない。アンタ自身が……弱いからだろ……っ!」
サーシャの懸命のメッセージを感じ取ったのか、こちらを小さく振り返る兄ちゃんと真っ直ぐ視線を見交わす。
サーシャは『ジョーカー』によって愛する母を殺害された。その後、激化する政権争いに巻き込まれ、追い打ちをかけられるようにして母国を追われた。自らに課せられた残酷な運命に、当時はただ打ちひしがれることしかできなかった。
「なぜアタシだけがこんな目に遭うの」と。過酷な運命を憎悪し、同時にすべてを諦めてすらいたのだ。
しかし、今は違う。たくさんの人たちと出会い、交流し、様々な経験を積むなかで、サーシャの考え方も大きく変化した。
自分の人生の支配者は紛れもない。自分自身なのだ。決して運命なんて曖昧なものなんかじゃない。
いいことも悪いこともすべてが天によって定められているなら、アタシたちは一体何のために生きているというのか。そんな他人任せの人生、アタシは絶対に認めない。
どんな障害が立ちはだかろうと諦めるもんか。未来は自分たちの手で切り拓くんだ。
「無力だと思ってるなら、もっと強くなれ……! 失ったものがあるなら、今度はもう二度と手放すなっ……! それができないなら……人間やめちゃえ……ッ!」
「お、おチビちゃん……」
「おチビちゃんって……言うな! お前みたいな情けない男に言われたくない!」
魔導のせいで身体が動かせない? それは、アタシがそう決めつけているだけだ!
動く。動く。動く! 動け、アタシのからだっ! 奥歯を強く食いしばり、サーシャは意思に抵抗する足元を持ち上げた。動く動く動く動くッ! 生まれたての仔馬のような頼りなさで、しかしそれでも少しずつ半身を起こしていくサーシャに、ジャムカが関心するかのように甲高く口笛を鳴らす。
「おおおおっ? 『緊縛運命』と『幻魔』のコンボを喰らって、なお立ち上がるたァ……。尋常じゃねェ精神力だぜっ! やるなァ。じょうちゃーんっ!」
「負け、ない、わよ……。アタシ……だって、まだやることが、残ってるん、だから……。アンタ、なんかに…………ジャマされて……たまる……もんですかァ……ッ!」
動くたびに痺れを伴う灼熱の痛みが全身を駆け巡る。大丈夫っ! 痛くなんかないっ! 鉛で塗り固められたような重苦しい体に鞭打ち、気合の咆哮一発。弱々しく曲がった背筋を真っ直ぐに伸ばし、しっかりと大地を踏みしめ、立ち上がる。負けない。負けない。アタシは絶対に負けない!
「……あー、そう。だったら、しょうがねェなァ……。嬢ちゃんのドパドパ・シーン見られないのは残念だが。ぶっちゃけ、オレもそんな余裕ねェしなァ。ちと心苦しいが、その首もらうことにするわ」
ぼりぼりと首元を掻きながら、標的を変更したジャムカが面倒そうに足先をサーシャに変更した。軽く持ち上げられたシミターが、雲間から注いだ月明かりを反射して、きらりと輝く。ざっざっと地面を踏み鳴らし、サーシャの一メートルほど手前で立ち止まると、非情の暗殺者が鷹揚な仕草で獲物を斜めに振り上げた。
「終(し)めェだ。嬢ちゃん」
にかっと、ジャムカが獣のような牙を剥く。眼前に掲げられた冷徹な殺意が、サーシャの細い首元に噛みつこうと、ぴたりと狙いを定める。
「ふへっ! それじゃあなァ。じょうちゃー……ん? なんだァ? さっきから、その……首でピカピカと光ってやがるのは……?」
と、ジャムカの濁った瞳がサーシャの胸元に引き寄せられた。
「ふふ……。あー気付いちゃったァ? えへ☆ キレーなペンダントでしょう? これねー。とーっても珍しいものなんだおー。……だってねェ」
ふっとサーシャが唇を不敵に緩めた瞬間。首元で発光していたペンダントから、突如、無数の光の束が溢れだした。
地表から見上げる太陽の比ではないほどの激甚な光線が、この場にわだかまる闇のすべてを即座に灼きつくす。
「ぐあァあああッ……!? な、なにが起こりやがっ──ひぎゃああァぁァあッ!!」
ぶしゅうっと粘膜を裂くような音に続いて、暗殺者の苦しみに塗れた絶叫が放たれる。サーシャの手元から撃ちだされたナイフが、寸分狂わずジャムカの右目に突き刺さったのだ。
激痛によって生み出された暗殺者の咆哮が、光が席巻する空間に高く木霊する。
作品名:デンジャラス×プリンセス 作家名:Mahiro