デンジャラス×プリンセス
「ここは霧の谷と呼ばれていてね。この場所を抜けると『アストラル・タウン』は、もう目と鼻の先さ」
頭上に散りばめられた満点の星空の下、サーシャのやや前方を歩く兄ちゃんがそう告げる。霧の谷という名称が示す通り、視界一面には濃密な霧が漂っており、夜ということもあって周辺の見通しはひどく悪い。
「……この谷、普通じゃないわね。恐らく、何者かの魔力が展開されてるわよ」
油断なく周囲に視線を走らせるサーシャに、兄ちゃんが目をぱちくりさせて尋ねた。
「魔力? ……もしかして、この霧のすべてが……ってことかい?」
「ええ。単純に目くらましの効果もあるんでしょうけど、恐らくはもっと別の性質……。例えば。この霧に触れた人間に何らかの影響を及ぼしたりとか、そういうトラップ的な可能性が高いわね」
「……なんだって?」
目を丸くする兄ちゃんに片手を上げ、サーシャはそっと目を閉じた。
「ごめん。兄ちゃん、少し静かにしてて」
まずは、この霧の正体を炙り出す。途端、集中した意識に淡い感覚が浮かび上がってきた。粘つき、ざらついた攻撃的な意思の帯。その先端を捉えるため、さらに心気を澄ましていく。……どこか遠くの方。キーンキーンという澄んだ鈴の音にも似た音響が響いてくる。その音源を辿るべく、さらに集中を深めていく。
瞬間、闇へと沈んだサーシャの視界に、うっすらと、あるビジョンが浮かび上がってきた。さらに集中。直後にパリン!と、ガラス細工が砕け散るような鋭い音が引き裂かれ、同時に外界の音が一切遮断される。
視えてくる。たゆたう魔力の流れ。香り、色、質感……。世界を構成する、あらゆる要素が次々と分解されていき、情報群の塊と化したそれらが、サーシャの五感を通して脳髄へと伝わってくる。
「……捕まえた」
サーシャの思考の中で、輪郭のぼやけた映像が、さらに鮮明さを帯びてくる。
そこは、どこかの宮殿のようだった。まるで黒曜石のような漆黒の艶髪の人物が、怪しげな深い紫の液体が注がれたグラス片手に、窓の外を眺めている。うっすらと映りこんでいる窓の外の景色に視線を集中させたところ、どうやらここは少なくとも五回以上の建物内のようだ。グラスに注がれた液体を優雅に口に運ぶ、その人物。この角度からでは顔の全体像は把握できないが、その雰囲気や所作からして権力者の類であることは間違いないだろう。
その長い前髪越しの眼差しには、一体何を映し出しているのだろうか。扇情的な口元が、ゆるりと吊りあがっている。一見すると女性のように見えるが、もしかしたら男性なのかもしれない。
「詠唱解析シークエンス。……やっぱりね。この谷全体には、外部からの侵入者に対する防衛措置が施されているようだわ。宝物庫とかによくある魔力結界と同じ仕組みね。詳しい効果は不明だけど、多分、この一帯の情報が術者の下に転送されるようになっているんじゃないかしら」
「え。この一帯の……?」
「うん。ま、早い話がこの霧全体が監視装置の役割をしてるってことね。いずれにしても、これだけの広範囲に及んでいるところを見ると、かなり大がかりな魔導のようだわ」
サーシャの隣で、感嘆の声が漏れた。
「へー。驚いたな。おチビちゃんに、そんな特技があったなんて」
脳内ビジョンを打ち消し、静かに瞳を解放すると、すぐ横で兄ちゃんが興味深そうなにサーシャを眺めていた。
「別に、特技ってほどのもんじゃないわよ」
「謙遜することはないよ。すごい能力じゃないか。ね、ね。オレにも、やり方を教えてくれよ。ね? いいだろ?」
ずいずいっと、兄ちゃんが興奮した面持ちを厚かましくも寄せてくる。
「ちょ、ちょっと! そんなに近寄らないでよ!」
「そのスキルがあれば、敵の存在を事前に察知することができるじゃないか。警備を生業とするオレには、もってこいの能力だろ? ね? お願いだよ〜。おチビちゃーん。この通りっ!」
「あ、ちょ……っと! なに、どさくさに紛れて触ってんのよ! ……あっち行けって言ってんで……しょっ!」
ベタベタと絡みついてくる兄ちゃんを、手加減無用。豪快に蹴り飛ばす。悲鳴の尾を引きながら、兄ちゃんはおよそ十メートルほどの距離をフライングし──地面に激突落下。その後も坂道を転がるリンゴのごとく地面を転がり、そこでようやく停止。
ぐったりとダウンする兄ちゃんを斜めに見下ろし、サーシャは、ふんと鼻息を漏らした。
「アンタには無理よ。いや、兄ちゃんだけじゃない。この力は世界中で、ただ一人。アタシにしか使えないんだから」
霧の向こう側で悲痛に呻く兄ちゃんに、ささやかながら講義。
「この力は、通常の魔導とは似て非なるもの。常識を超えた遥か高次の存在。それは真なる魔導の理。その名も『真魔(しんま)』」
「真……魔……?」
ふらふらと片膝をつきながら、兄ちゃんが訝しげに目を細める。
「そ。ありとあらゆる攻撃的魔力を無効化(ディスペル)し、なおかつ邪悪な意思によって生み出された魔力帯(マジックライン)を察知・感知することができる、ディフェンス特化型の魔導よ。とっても便利で、スペシャルな能力だけどね。発動には、あるアイテムの存在が不可欠なの」
首を下方に巡らし、シャツの胸元で輝く装飾品──逆十字型のペンダントを、そっと片手で持ち上げる。
「これは、シルフィス城に代々伝わる秘宝の一つ。その名も『浄化の装飾具(ペンダント・オブ・パージ)』」
忘れもしない。このペンダントは、サーシャが幼い頃に前女王である母に授けられたものだ。ちょうどサーシャが十歳になった記念にもらったもので、当時はこのペンダントの持つ真の価値など想像すらできなかった。
これを渡されたとき、母はこう言った。「このペンダントが、必ずサーシャを守ってくれる」、と。
それ以来、この神秘的な輝きを内包する首飾りを肌身離さず身につけている。
実際、シルフィス城を脱出してから今まで、何度サーシャの危機を救ってくれたか分からない。
一人じゃない。母は、いつもサーシャの側で見守ってくれているのだ。
ありがとう。
手に取ったペンダントを顔の近くまで引き寄せ、今は亡き母の形見に、そっと唇を触れ合わせる。
「し、シルフィス城……? おチビちゃん、キミは一体……」
「……しっ!? ……話は、あとよ! どうやら、お客様の登場らしいわっ!」
サーシャが叫ぶや、突然、霧のヴェールの向こう側から大量の矢が射かけられてきた。前方、左右、上空と、全周囲から高速で狙い撃たれる矢の嵐を、バックステップにサイドステップ、さらには後方宙返りを織り交ぜ、回避していく。
やがて、降り注ぐ矢の弾幕が途切れた。ふーっと呼吸を入れ替え、それから素早く兄ちゃんの安否を確認。すると、さすがは兄ちゃん。すべて無傷で回避しているようだった。示し合わせたように、お互い背中合わせに位置取り、身構える。
「こそこそ隠れてないで、出てきなさいよ! それとも、ここにいるのは、かわよい女の子にまでビビっちゃう腰抜けさんたちの集まりなのかしら」
挑発的な言葉がトリガーとなり、周囲の気配が一気に燃えるような赤へと変色する。直後、ゆらゆらと不安定に揺れる薄霧の先から、次々と黒い人影が踊り出てきた。
作品名:デンジャラス×プリンセス 作家名:Mahiro