くらげの浮かぶ、境界線
くらげの浮かぶ、境界線
夜が明ける。明るくなりつつある東雲を私は真っ先に目にした。
朝日が薄雲を照らして、その反射光が万年床を照らす。群青色の薄雲を背に、三本脚の烏がこちらを見つめていた。
三本脚の烏は硝子越しに私にカーと鳴き、そのまま東の空へと消えて行った。
気のせいかもしれない。光の加減で足が三本に見えたのだろう。私はそう自分に言い聞かせ、ベッドから降りる。
思ったより早く起きてしまった。空腹を覚えた私は、座椅子に引っ掛けたまま放置していたパーカーを羽織ると、近くのコンビニまで足を向ける。
家を出ると、一等星程の光がジグザクと軌道を描きながら西の空へと抜けて行く。気のせい、気のせいだ。
道中、防空頭巾を被った女の子がとぼとぼと私の後を付けてゆく。太くて短い身体を持つ蛇がコロコロと私の目の前を横切る。アパートの向こう側から骸骨がひょこりと顔を見せる。いつも通っている道にバカでかい三つ目の犬が座って通れない。人の顔を持つ犬がヒトの体を持つ猫と残飯の奪い合いを始めた。
気のせい、気のせい、気のせい。
「ねぇねぇ、唐揚げ奢ってよ、唐揚げ」
「って気になるわっ!」
終いには二足歩行の狸にコンビニの前で唐揚げをねだられる始末だ。
「今日何なんだよっ! 遂におかしくなってしまったのかと自分が心配になるわっ!」
なんか中々太陽も昇ってこないし。なんなんだよ、一体。
「それはねぇ。君は今、ちょっとずれちゃっているんだよ」
そう言って、二足歩行の狸はコンビニの前で胡坐をかく。その座り方は狸がするもんじゃない。
「どういうことだよ」
まるで狂人扱いだ。まあ、こんな状況だ。自分でも正気を疑うところだ。
「唐揚げ食べられたら話す気になるかなー?」
く、人の足元を見やがって。
「し、かたないなぁ」
まあ、唐揚げ一パックの値段なんてタカが知れてる。それに、普通の狸が目の前に現れたら持っている唐揚げを与えずにいられるか、自信はなかった。
「わーい、唐揚げ唐揚げ。昆虫のあのえぐみのある味わいも良いんだけど、やっぱ人間の食べ物って素直においしくて良いよねぇ」
「さいでっか」
私もコンビニの前に行儀悪く座り込んで、ご飯を食べだす。何故かコンビニの店員はいつものバイトさんで。しかも二足歩行の狸が入ってきてもスルーどころか普通の客のような対応をしていた。
「さてさて――僕たち妖怪とか都市伝説の類って、普通の人間は認識できないんだよね。いや、今みたいに認識していても、疑問に思わないという感じかな。まずは見えない。よしんば見えても気にしない。現代の人ってそーいう人ばっかなんだよ」
スーツ姿の口裂けた女が、自転車で道を走り抜ける。
「あんな感じ?」
「そうそう、あんな感じ」
口裂け女も朝からご苦労なことだ。口裂け女とOLの二重生活なのだろうか? 「お前もこんな顔にしてやろうかーっ!」で食えた時代ではないのだろう。口裂け女は空を浮かぶくらげの方向へとそのままの勢いで走ってゆき、やがて坂の向こうへと消えていった。
「昔は川原で河童と相撲を取った、なんていうのはどーいうこと?」
負けたら尻小玉を抜かれるとか言うアレだ。溺死体の括約筋が緩んで肛門がぽっかり空いていたことから、古人は尻小玉というありもしない臓器を創造したのだという。
「ん。それについては後の話で。ねぇねぇ、そのフランクフルトもちょっと頂戴?」
「いやしんぼうめ。人間の食いモノなんて身体に毒だよ」
そう言いながらも、私は狸にフランクフルトを与える。
「そりゃ君たちもそうなんじゃないかなぁ?」
「あんたそりゃ、大きさが違うじゃないか。あんたは小動物。こっちは一メートル強の大型動物。そりゃぁ、毒物への耐性も違ってくるんだよ。……ってそうじゃなくて、話の続き」
「ああ、ごめんよ。それでね、君はちょっと今、ずれちゃってるんだよ」
まあ、妖怪に添加物の毒性がどうのって話がそもそもずれているんじゃないかと思わないでもない。
「そのずれちゃっている、というのが良く分からん。なんなんだよ、それ」
「人間には人間の住む世界、妖怪には妖怪の棲む世界がある、という話だよ」
大きくて丸っこい蜘蛛が私たちの前を通り掛る。彼はこちらに会釈して、逃げるように転がって行った。その姿を私は眺めながら、豆狸の話を聞く。
「昔は今みたいに境界が厳格じゃなかったんだ。もっと曖昧だった。それこそ、河童と子供が相撲を取っていたくらいに」
狸は遠い目で東の空の月を見つめる。月は地平線の向こうの太陽に照らされて、薄ぼんやりと浮かんでいる。
「あんた、何歳なんよ」
「化け狸は長生きだよぉ。人間なんかとは比べ物にならないくらいにね」
西の空にくらげが浮かんでいる。くらげはふわふわと月の方へと漂っていく。
夜が明ける。明るくなりつつある東雲を私は真っ先に目にした。
朝日が薄雲を照らして、その反射光が万年床を照らす。群青色の薄雲を背に、三本脚の烏がこちらを見つめていた。
三本脚の烏は硝子越しに私にカーと鳴き、そのまま東の空へと消えて行った。
気のせいかもしれない。光の加減で足が三本に見えたのだろう。私はそう自分に言い聞かせ、ベッドから降りる。
思ったより早く起きてしまった。空腹を覚えた私は、座椅子に引っ掛けたまま放置していたパーカーを羽織ると、近くのコンビニまで足を向ける。
家を出ると、一等星程の光がジグザクと軌道を描きながら西の空へと抜けて行く。気のせい、気のせいだ。
道中、防空頭巾を被った女の子がとぼとぼと私の後を付けてゆく。太くて短い身体を持つ蛇がコロコロと私の目の前を横切る。アパートの向こう側から骸骨がひょこりと顔を見せる。いつも通っている道にバカでかい三つ目の犬が座って通れない。人の顔を持つ犬がヒトの体を持つ猫と残飯の奪い合いを始めた。
気のせい、気のせい、気のせい。
「ねぇねぇ、唐揚げ奢ってよ、唐揚げ」
「って気になるわっ!」
終いには二足歩行の狸にコンビニの前で唐揚げをねだられる始末だ。
「今日何なんだよっ! 遂におかしくなってしまったのかと自分が心配になるわっ!」
なんか中々太陽も昇ってこないし。なんなんだよ、一体。
「それはねぇ。君は今、ちょっとずれちゃっているんだよ」
そう言って、二足歩行の狸はコンビニの前で胡坐をかく。その座り方は狸がするもんじゃない。
「どういうことだよ」
まるで狂人扱いだ。まあ、こんな状況だ。自分でも正気を疑うところだ。
「唐揚げ食べられたら話す気になるかなー?」
く、人の足元を見やがって。
「し、かたないなぁ」
まあ、唐揚げ一パックの値段なんてタカが知れてる。それに、普通の狸が目の前に現れたら持っている唐揚げを与えずにいられるか、自信はなかった。
「わーい、唐揚げ唐揚げ。昆虫のあのえぐみのある味わいも良いんだけど、やっぱ人間の食べ物って素直においしくて良いよねぇ」
「さいでっか」
私もコンビニの前に行儀悪く座り込んで、ご飯を食べだす。何故かコンビニの店員はいつものバイトさんで。しかも二足歩行の狸が入ってきてもスルーどころか普通の客のような対応をしていた。
「さてさて――僕たち妖怪とか都市伝説の類って、普通の人間は認識できないんだよね。いや、今みたいに認識していても、疑問に思わないという感じかな。まずは見えない。よしんば見えても気にしない。現代の人ってそーいう人ばっかなんだよ」
スーツ姿の口裂けた女が、自転車で道を走り抜ける。
「あんな感じ?」
「そうそう、あんな感じ」
口裂け女も朝からご苦労なことだ。口裂け女とOLの二重生活なのだろうか? 「お前もこんな顔にしてやろうかーっ!」で食えた時代ではないのだろう。口裂け女は空を浮かぶくらげの方向へとそのままの勢いで走ってゆき、やがて坂の向こうへと消えていった。
「昔は川原で河童と相撲を取った、なんていうのはどーいうこと?」
負けたら尻小玉を抜かれるとか言うアレだ。溺死体の括約筋が緩んで肛門がぽっかり空いていたことから、古人は尻小玉というありもしない臓器を創造したのだという。
「ん。それについては後の話で。ねぇねぇ、そのフランクフルトもちょっと頂戴?」
「いやしんぼうめ。人間の食いモノなんて身体に毒だよ」
そう言いながらも、私は狸にフランクフルトを与える。
「そりゃ君たちもそうなんじゃないかなぁ?」
「あんたそりゃ、大きさが違うじゃないか。あんたは小動物。こっちは一メートル強の大型動物。そりゃぁ、毒物への耐性も違ってくるんだよ。……ってそうじゃなくて、話の続き」
「ああ、ごめんよ。それでね、君はちょっと今、ずれちゃってるんだよ」
まあ、妖怪に添加物の毒性がどうのって話がそもそもずれているんじゃないかと思わないでもない。
「そのずれちゃっている、というのが良く分からん。なんなんだよ、それ」
「人間には人間の住む世界、妖怪には妖怪の棲む世界がある、という話だよ」
大きくて丸っこい蜘蛛が私たちの前を通り掛る。彼はこちらに会釈して、逃げるように転がって行った。その姿を私は眺めながら、豆狸の話を聞く。
「昔は今みたいに境界が厳格じゃなかったんだ。もっと曖昧だった。それこそ、河童と子供が相撲を取っていたくらいに」
狸は遠い目で東の空の月を見つめる。月は地平線の向こうの太陽に照らされて、薄ぼんやりと浮かんでいる。
「あんた、何歳なんよ」
「化け狸は長生きだよぉ。人間なんかとは比べ物にならないくらいにね」
西の空にくらげが浮かんでいる。くらげはふわふわと月の方へと漂っていく。
作品名:くらげの浮かぶ、境界線 作家名:最中の中