和尚さんの法話 「仏教と医療」
ですが、最近になってちょっと信仰をやめましたんです。
なんでやめましたかと言うと、昔から弘法大師を信仰していたんですが、最近リュウマチになったんです。
信仰をしてる最中に病気が起こってくる。
病気になったら信仰したら治るというのに、健康な間から信仰してて病気になるとは、こんな信仰はあかんというのでやめてしまったんですね。
それは間違いですよ。
因縁と信仰の加減なんですよね、業は深いは信仰は浅いというのでは、これは治らない。
だから信仰をしてたら一から十まで何もかもがいいとは、そうはいかんのです。
前世の因縁が深いと、その分が残るんです。
だから信仰をしてあって、なにか不都合なことが起こったら、これはよっぽど自分の因縁が悪いんだ罪が深かったんだなあと、よけいに信仰をしないといけません。
信仰をしていて具合が悪かったらよけいに信仰をせなあきません。
前世の業を教えて下さってるのだから有難いことだと思うて、よけいに信仰しないといけません。
お婆さんにそう言うてあげなさい。
そうしたら病気も治るかもしれませんよ。
そして家へ帰ってお婆さんにそう言うたらしいです。
お婆さんはそうかい、と言うて、引き出しを入れてしまってた弘法大師の掛け軸を出して、信仰をしましたら、治ったそうです。
そのお婆さんは、嫁がお世話になりましてと、和尚さんから言われたとうりに信仰しましたら治りましたと言って、挨拶に来たそうです。
それから、どんなにしても治らないというのもあるんです。
世界中の名医を集めても治らないし、どんな名僧や知識人が来ても、たとえ仏様でも治すことが出来ないという場合があるんです。
それは業決定は転じ難し、縁無き衆生は度し難し、一切衆生は尽し難しと、仏様も出来ないことを言うのです。
『不動明王』
三種不成といって、三つの成らざること。
この中のひとつの、業決定は転じ難しとありますが、これはその人が生まれてくるときに、30年なら30歳で死ぬという寿命を持って生まれてきてることがあるんです。
決定的に、30歳で死ぬということを宿命といいますが、そういう運命を持って生まれてきてる場合には、30歳になって病気が起こってきて、どんなにしてもその人は助からんと、病気に例えたらそうですね。
そういう話があって、これは明治の話ですが、子供が病気になって医者から見離されたんですね。
それで神や仏があるとは信じられないというのですが、然し、人の話を聞いてみるとご利益があるという人が一人や二人ではない。
そうするとやっぱり、神や仏はあるのかなと、思ったんですね。
自分は無いと思うんだけど、医者も見離してしまってるし、一所懸命に神仏を拝んでみよう。
一所懸命に頼んだら、神仏というものがあるのなら何かが起こるだろう。
こういう気持ちになって、師走から毎日、滝に打たれに行ったんです。
和歌山に鳴滝という滝があるんです。
弘法大師もその滝で修行をしたと聞きますが、その滝へ毎晩毎晩打たれに行ったんです。
どうぞ、神仏があるならば、この子の命を助けて下さい。
私の命をとろうとも何があっても結構です、だから子供を助けて下さいといって、毎晩毎晩打たれに行ったんです。
そうしましたら、或る晩に声が聞こえてきまして、こう言うと今の医学では幻聴というんですね。
そして、わしはこの滝に住んでる者だ。
わしは、真心込めて祈る者には助けるのが仕事なんだ。
ところが、おまえのかけた願は叶えられない。
助けることが出来ないというのです。
あまえは命が縮まっても取り替えてくれというが、この子はもうここで死ぬ運命で生まれてるんだ。
おまえは、縮まっても取り替えてくれとも言うが、おまえは長命だ。
これも決まってるんだ。
これはどうしようもない。
だから、わしとしても辛い。
おまえの気持ちがわかるので辛い。
せめて泣いてやる。
と、言うて泣くんですね。
泣き声が聞こえてくるんですね。
おまえは疑い深いから、こういうことを言うてもなかなか信用しない。
然し、ひとつ教えておくが、この子供は何日の何時に死ぬぞ、と。
日と時間まで言うたと言うんです。
だから、この日のその時間に死んだら、わしが言うてるんだから神仏というのがあるというのを悟れよ、と。
然し、おまえの毎晩毎晩頼みに来るその努力は無駄にはせんぞ。
その功徳を、その子に持たせてあの世で良い所へ生まれさせてやるから、と。
この世で助けることは出来ないけど、あの世で良い所へ連れていってやると。
そういうことがあっても、これは頭がおかしくなってきたのか、試すということがあるというが、試されてるのかと思ったんですね。
諸の気持ちが起こってきたけれども、あいも変わらず毎晩毎晩その滝へ打たれに行った。
けれども、言われたその日の時間通りに子供は死んだ。
それで、なるほど神仏というのはあるんだなと悟ったというのです。
それから信仰に入ったそうです。
其の時に言われたことが、おまえは長命だと、何れは神仏に仕える身に成るんだと言われてそうですが、そのお婆さんは80歳まで生きたそうです。
ですから、病気はまずはお医者さんにかからないけません。
然しながら、お医者さんにかかってたらそれでいいのかというのではありませんね。
やっぱり信仰を持たないといけませんね。
中には信仰さえしてたら医者なんかいらんという人がいますが、これも間違いですね。
お釈迦様だって医薬は利用なさってたんですし。
然しながら信仰もなさいませということですね。
『夢のお告げ』
或る方が、手術をしようか、しまいかということなんですが、お医者さんはしたほうがいいとおっしゃるんですと。
然しながらこの手術は四分六だと、100%と違うんだとおっしゃる。だから迷うんですと。
それは、神仏にお伺いしなさい。
夢で、手術をしたほうが宜しいのか、しないほうが宜しいのかと、どうぞ夢でお告げを下さいというて、お願いしなさいと。
その人は清水さんの下の人でしたので、清水の観音様にお願いしたそうです。
そうすると、その奥さんじゃなくて、ご主人が夢を見たらしくて、わしは昨夜こんな夢を見たぞと、奥さんに話しして、その夢の話を、これはどういう意味ですかと、和尚さんに聞きに来たわけです。
それは、二人で櫓で漕ぐ舟に乗ってる夢で、その船に乗って沖で波に揺れてるんですが、櫓が無い。
その船が少しずつだけれども、海岸へ近付くんです。
早くあの海岸へ着かんかな、着いたら休めるんだけどなあ、と。
夢の中でもしんどいんですね。
そうしていると、沖から大きな波がよせてきて、その波に乗ってその船が海岸へ上った。
ああよかったーと、思ったひょうしにえらい勢いで乗り上げたので船が木っ端見陣になって投げ出された夢を見たというんです。
それで和尚さんは、これは神仏は悪いというてるのと違いますかと。
船に櫓が無い。
然しながら少しずつでも海岸へ近付くということは、様子を見ていれば少しづつでも日にち薬で治るという意味だと思いますね、と。
作品名:和尚さんの法話 「仏教と医療」 作家名:みわ