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和尚さんの法話 「仏教と医療」

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ほんとうの仏教の利益はあの世の利益をいいますね、例えば極楽往生を求めるというような、救いを求めるというのが仏教としてはほんとうのことなんですが、
ところが我々としては、この世も苦しいよりは楽がよろしいので願うんですね。

そしてその仏縁によって、未来も利益を得られる、ということです。
今もこの西光寺というお寺はございます。

この西光寺の話は、初めは聖徳太子から始まりまして、聖徳太子が蘇我、物部の戦いに参加して、四天王に祈ったんですね、持国天、増長天、広目天、多聞天、多聞天は毘沙門天のことですね、この四天王は仏教を守護する神さんですね、その四天王に祈った。

この戦に勝てましたら、必ずあなた様のためにお寺を建てますから、という誓願をたてて戦に臨んだ。


すると、何処からともなく三人の白い装束の武士が白い馬に乗って現れたり、消えたり、現れたりと、大将を守護するんです。

この武士は誰だろうと、確かめることも出来ないままに戦に勝った。

そして仏教を日本の宗教にすることが出来るということで、誓願どうりに四天王を本尊にして建てたのが、天王寺ですね。

そして、その天王寺を建立してる最中に、昔の戦争の夢を見るんです。
そうしましたら、また三人の武士が現れて、大将を守るんです。

それで、この武士は誰だろう、誰だろうと思ってたので、夢の中で誰ですかと、聞いた。

我は地蔵菩薩である。
仏法を広めるために日本へ渡ってきた。

あ、あれは地蔵菩薩であったのかということで、聖徳太子は三体のお地蔵さんを彫ったんです。

話が長くなりますが、此の間にいろいろありまして、関東の方へ行って、この西光寺に収まるんですね。

そして何時いつのと聞いて、あなたは何方ですかと聞いたら、西方寺の地蔵菩薩だと。

そしてお堂を見ると、夢と同じお地蔵さんがあるんですね。

そしてそれが分かれ分かれて、和尚さんの寺へ一体が来てるわけです。
この地蔵菩薩の縁起があって、その一部分をここへ書いたわけです。

前にご祈祷があって、お産の人が、なかなか生まれない。

なんとか和尚さん、生まれるようにと、いうから拝むけどなかなか生まれない。

そして、また早く生まれるようにご祈祷して欲しいというので拝む。

それから話しを聞いてると、日を選んで何月の何日に生まれさせて下さいと、祈願をかけてたんですって。

その日が、まだあと10日ほどあるわけです。

それで和尚さんが、ご祈祷しても生まれませんのや、と。

そして、日限というのは、そんなかけかたをするのと違いますよというので、この話をしたということです。

それから日限をした日に子供が生まれましたと電話があったそうです。


四、
― 喘息の治りしこと ―
大正十四年十二月九日、栃木県下都賀郡、渡辺四郎右衛門氏喘息で数年来臥(ふ)せり勝ちであった。
其の妻女は夫の病苦を案じ常に地蔵菩薩を信仰していた。
或る夜襖を隔てた隣室で地蔵尊の印行をしておった。
氏はそれとは知らず夢路を辿っていたが、ふと枕元に地蔵菩薩が現れ給い鉄の箸をもって咽の中に差し入れ痰を引き出し給うた時、カッという声を出して夢醒めた。
その日からふっつりと痰が切れ喘息は治ったのである。

― 地蔵様のお話と霊現記 ―

これは、現世の利益ですね。

五、
― 小浜町中島こう女治病のこと ―

若州小浜町の中島おうという婦人は昨十一年(昭和)三月頃より食道癌にて苦しみ一切食事もとれずやせ細って見るも哀れな姿となっていた。

遂に京都医大病院へ入院した。

此の町内に大雲老師に付いて問法もし参禅もする修証婦人会というのが有るが、此の会の幹事等数名が中島さんの為に地蔵尊影一万体を印行して町外の湯の岡という処の南川へ奉流に行った。

そして其の時お供へした浄水や御洗米を京大病院の中島さんの所へ郵送した。
医師も皆施す術もなく、ただ看護る許りであった。

ところが、其の奉流の日より次第々々に軽快となり三週間後には全く本服して退院帰郷する事が出来た。

― 地蔵様のお話と霊現記 ―



この大雲老師は、もう他界なさっていまして、曹洞宗の坊さんで、地蔵菩薩の信仰をすすめた方だそうです。

これは地蔵流しというものですね。

お地蔵さんのお姿の判子を小さい紙に押して、祈願をして川とか海に流すんですね。




六、
― 宮津町のマツ女治病のこと ―

京都府興謝郡宮津町智源寺の檀家総代に戸田三郎という人がある。
常に三法を敬い自寺門の為によく力を尽くす人であった。

その妻女が四十六歳の頃より難病に冒(おか)され、多くの名医にもかかったが皆匙を投げて自然任せるより他ない有様であった。

然るに智源寺の一修行僧がこれを聞き、主人久三郎氏に地蔵菩尊影一万体の印行奉流の事を話し、主人も大いに喜んで自分を始め看護の人々等共々協力して一万体尊像を印行奉流したのであった。

不思議にも其の日より次第に病が軽微となり、一ヶ月の後にはすっかり全快するに至ったのであった。

― 地蔵様のお話と霊現記 ―


七、
江戸の或る豪商の一人娘が大病にかかり百万手を尽くしたはが一向劫験なく、愈々命旦夕に迫った。

時に円覚寺の大和和尚誠拙師は生き仏様だという評判を聞き伝え、草速和尚を駕(かご)で迎えて娘の祈願を願った。「よしよし有難い修法を行じてやるぞ、したがお布施は前金だぞ、わしは後金というやつは嫌いでな」と言う。

「へえへえかしこまりました。娘の命さえ助かる事でしたら、仮令(たとえ)身代分無くなりましてもかまいません」

「そうか、そうか。そんなに沢山はいらぬが金子百両に米百俵、それをな、今直ぐ円覚寺に届けてもらいたい」

えらい高いお布施だとは思ったが、身代の半分と言った手前今更値切る訳にもいかず、娘助けたさ一念から此の申し出の通りにした。

和尚は仏壇に向かって般若心経を踊する事一返、祈願はそれで済んだ。

そして人を遠ざけ病める娘の枕頭に座しじゅんじゅんと説き聴かすのであった。

「娘よ、よく聞けよ、お前はこんな大家の一人娘と生れ乍ら其の栄華も味合う事も出来ずに死んでゆくのはまことに気の毒だが定命ならば致し方もない事じゃ。

然しお前は仕合せ者だぞ。わしは今お布施に金子百両と米百俵貰った。

それはそくり鎌倉の円覚寺に送って貰った。

無駄に使うのではない。伽藍を直したり、仏事を営む大勢の坊さん達に供養したりする金子と米じゃ。

大勢の坊さんの中には生き乍ら仏に成る程の者も三人や五人はおる。

すればお前は活(いき)仏様と直に縁を結ぶ事になるのじゃ。

何と有難い事ではないか。

何も思わず悦んで安心して死にやれ」
と説き聞かせた。

そして「娘が死んだら此の縁でわしが引導を渡してやる」と、主人に言い残して帰って行った。

主人は「娘の病気平癒を頼んだのに、死ね死ねとは・・・」と烈火の様に怒りはしたが、其れ以来は次第に快方に向かい遂に全快することに至った。

― 仏教信仰実話集 ―



これも本当の話ですね。
江戸時代の末期で、明治の初め頃のことだそうです。

これは、般若心経は読みましたけどれど、これは祈祷というよりも、功徳なんですね。