和尚さんの法話 「臨終の一念」
あの世というものと、無関係に宗教を、或いは仏教を説こうとすると、その説き方が精神修養的な話しになるか、道徳の話しになってくるか、或いは社会事業的な話しをするか、或いは政治的な話しになってくるか、と。
こうなって来ざるを得ないと思うのですね。
この世の中というものは、我々人間世界というものは、仏教やキリストが無かったって、ちっとも困らないですよね。
かえって邪魔になるのと違いますか。
この世の中だけならばね、地獄が無いならば、もっと楽に生きられますよ人間は。
一休さんが、昔は地獄や餓鬼やと、お釈迦さんが出てきて言うから、皆が迷いだしたんだと言うて。
「釈迦という悪戯者が世に出て多くの人を迷わするから」と。
こういう歌を歌ってますね。
懼れ多い歌ですけどね。
まあ、そんなことでしょ。
だから、あの世という所があって、あの世に冥福があるのですよね。
冥土の幸福。
謹んでご冥福をお祈り致しますと。
あの世でいい所へ行って下さい、幸福になって下さいということですね。
坊さんは、冥福を祈る儀式をするわけですよね。
そういう儀式や伝統があるということは、あの世があるという前提で行っているわけですよね。
一歩譲って、あの世があるとして、霊魂があるということにして。
あの世に冥福があったり不幸があったりするということを認めて頂いて、そういう前提のもとに、あの世の霊魂を宗教以外のものが、何が出来るか。
医学のメスがあの世まで届くのか。
政治があの世まで届きますか。と、こういいたいのですよ。
つまり、あの世があった場合に、宗教以外のものがいったいなんの役に立つのか。この世の事は別としてね。
あの世の人間に手を差し伸べるものは宗教以外に何があるか。と、いいたいのですよ。
そこが宗教の本質なんですよ。
それが出来るのは宗教だけなんです。
この世のことも出来ますが、あの世のことで、地獄の衆生を救おうということが、仏教以外に何が出来るのか。
他のものでは出来ない。
そこに宗教の価値というのか、存在理由があるわけなんです。
だから、あの世が無かったら宗教は成立しない。
簡単に言いましたら、そういうことですね。
『臨終の一念が一番大事』
仏教で、あの世というものを認めて全て説いてきたのです、明治までは。
そのあの世というものに対してあの世へ趣くときに、一番肝心要の時は、「臨終の一念」だということなんです。
正念でなければならない。
臨終の一念が一番大事。
顛倒、錯乱、失念してしまったら、それはもう役に立たないのです、あの世の後生のためには。
臨終は、まずは正念でなければならない。
明瞭なちゃんとした理性の、分別の出来る心理状態でなければ、今これから死んでいくというときに、善知識というのが、昔はもう死ぬということになったらお医者さんよりも、坊さんを呼んだのです。
坊さんでなくてもいいのです、本当の信心を頂いているような人に来てもらって、そしてこれから死んでいくと。
此処が正念場なんです。
貴方はこうしないといけない、こうしなさいと説いてあるのです。
だから昔は、もう死にかかったらすぐに坊さんを呼んだのですね。
昔の伝統的な仏教はそういうものだったそうです。
ところが、それが反れてきた。
後生というものを否定しながら、而も仏教を説くと、いうようなことは、例えて言いましたら、親が生きているのに、それがもう死んだと思って、呆けてしまってね。
親が生きていたら家も建ててやるのになあと。
外へ行ったら美味しいものも買ってきてやるのになあと。
またいい所へも連れて行ってやるのになあ。
親父も死んでしまってなあ。
と、まだ生きているのに。
呆けてしまって、そういうことを言うのですね。
顛倒、錯乱、失念ですね。
或いは、子供が死んでしまっているのに。
まあ、あの子のために保険にも入ってやらんといかん。
あの子のために、学費も用意してやらんといかん。
と、本気になってそういうつもりになってしまっている。
もう子供は死んでいるのに。
そういうのを、顛倒というのですね。
つまり、有るものを無いと思う。
無いものを有ると思う。
つまり霊魂は有るのに無いと思う。
因果の道理があるのに無いと思う。
真実であるものを、誤りと思う。
逆に誤りを、真実と思う。
そういうのを顛倒というのです。
般若心経の中にありますね。
顛倒夢想 究境涅槃 三世諸仏 といって。
顛倒というのは、ひっくりかえっているのですよね。逆さまになっている。
足を歩かんならんのに頭で歩いている、というようなことですね。
それが顛倒というのですが。
それが、死ぬときになったら、そういうふうになってくる畏れがあるのです。
顛倒、錯乱、失念と、この三つが現れがちなんですね。
要するに、呆けるとかいうのがそこへ入ってくるわけです。
だから、僭越な言い方をしますけど、現在の仏教は顛倒しているのではないでしょうか。
それは悪口を言うというのではなくて、比較しないと、もの事は分かり難いのですよね。
これが白いのですよ、と言っても他のものと比較しないと、本当に白いのか分からない。
では他のものは白いのかというと、皆白いのかというと、そうじゃない。
他のいろんな様々な色があって、比較したらよく分かる。
そしてこれが白ですと。
現在の仏教は、全部じゃありませんが、概して言えば、現在の仏教を説く人はどうも、あの世を認めない。
そういう方々が、仏教の大学の先生をしてらっしゃいますのでね。
和尚さんが仏教の大学で習ったのは太平洋戦争の頃ですからね。
その頃、既に仏教はあの世を認めない、唯一の宗教だと先生に習ったそうです。
いろんな宗教があるけれども、あの世を認めない、つまり霊魂を認めない唯一の宗教が仏教なんだと。
仏教以外の他の宗教は皆認めると。
実際そうですね。
他の宗教は皆認めている。
仏教だけが認めていない。
それが優れていると思っているのですね。
それが顛倒ですね。
益々激しくなってくるのではないかと思うのですが。
然しそれは全ての人じゃないのです。平均すると、そういう人が多い。
それも坊さんであり、仏教学者、そういう方が大学で教えている。
そういう方々が多いのですね。
そういう方々は有名ですからテレビへ出てきたり、論文を書いたりしますね。
それが多くの人々の耳に入り目に入る。その影響が非常に大きいのですよね。
そこに現在仏教の法難があると、和尚さんが嘆いておられた。
そういうことで、本来の仏教は、あの世というものを前提にしている。
三界解脱とか、生死解脱とか、輪廻の解脱とか、そういうことが目的でした。
この世のことと違うのです。
この世は六道の中の迷いの世界ですから。
そんな迷いの世界を大事にしているというようなことでは、死んであの世へ行ったら覚束ない。
結局我々は後生に向かって旅を続けているわけなんですね。
その最後の一念が、これから死んでいくという、その時です。
作品名:和尚さんの法話 「臨終の一念」 作家名:みわ