和尚さんの法話 「臨終の一念」
『正念場』
何度も申していることですが、一般に正念場という言葉がありまして、これは一番肝心要の時と申しまして、一番大切な時。
そういう場合を、正念場と、こういうふうに使いますね。
これは元々仏教の言葉で、臨終正念という言葉があるのですが。
これは伝統的な仏教と申しますか、本当の仏教と言いたいのですが。
現在の仏教は、本当の位置から反れてきているように思うのです。
やはり昔の、法然上人とか日蓮上人とか一遍上人とか、宗派は違いますけれども、そういう昔の方々が説いてきた本筋は同じなんで、そういう昔の人々の説いた仏教というものは、やはりそれが正しかっただろうと、今の仏教はどうもおかしいと、和尚さんは思っているそうです。
それはいろいろあるのですが、その一番肝心なところと申しますと、死後の世界を認めるか、認めないかというところに帰着すると思うのです。
来世を認めるか、認めないかと、そこへ来ると思うのですね。
大雑把に言いますと、明治までの仏教は、大体どの宗派の人でも認めたように思うのです。
それから科学が日本へ入って参りまして。
その科学というのは、何でも証明していきますから。
そういうことで科学というのは、非常な信頼性があるわけですね。
ところが、霊魂というものはその科学というもので証明することが出来ない。
そこへ以て、証明できないことは無いということにはならないのだけど、でも無いというふうに思ってしまうのですね。
そこでたまたま仏教では、空。
色即是空の空とか、或いは、無我。という思想がございますね。
これは仏教の根本思想ですが、それがあの世が無いと、霊魂は無いのだと、いうふうに受け取ってしまっている。
これは非常に、浅はかな解釈ですね。
空とか無我というのは、そういう浅はかな意味と違うのですね。
機会があればこのお話しもさせて頂きますが。
そういうことで、伝統的な仏教からもして、あの世を認めていますから、あの世へ行ってどうする、こうする、どうなるかという問題が当然絡んでくるのですね。
死ぬということと密着して。
死んだら終いだというのと違うのですね、死んだらどうなるのだと、どうしたらいいのだと。
その問題が、重大な問題なんです。
具体的に申しますと、地獄があるわけですよ。
それを無いと思っているわけです。
極楽もあるわけですよ。
だから、地獄に行く人はどういう人が行くのか。
極楽へ行ける人はどういう人が行けるのか。
という問題が出てくるわけですね。
だから昔の人は、この世のことだけじゃない、後生のことばっかり考えていたわけです。
後生が大事。後生が大事だと。
それがやっぱり正しかったと思うのです。
『救いとは何か』
今の方々は、この世に重点を置いて、人間如何に生くべきかと。
いうような説き方をするわけですね。
それはあの世より、この世が大事だといっているのではなくて、おそらくはあの世を信じられないから、あの世は無いんだと。
そして仏教を説くとなると、やっぱりこの世を説くよりしようが無いですよね。
あの世を認めないのだったら、もう坊さんは必要ないと思うのですが。
あの世が無かったら、仏教は成り立たないのですよ。
仏教というより、宗教が成り立たない。
仏教とか、宗教とか、何処がどう違うか、という疑問の方もいらっしゃると思いますし、そんなことはよく分かっていると思われる方も勿論いらっしゃるはず。
この宗教の中に、仏教が入っているわけです。
宗教という範囲のほうが大きい。
その宗教の中に、仏教があり、キリストがあり、回教徒があり、なになに教というのが含まれているのですね。
だから仏教やキリストの包んだ宗教というもの。
あの世を否定したら、その宗教そのものが成り立たない。
宗教というものは、あの世を説くものなんですね。
分かり易く言いますと、救いを説くものですね。
宗教とは、救いを説くもの。我々人間の救いを説くものです。
救いとは何か。
救いという言葉は、我々はよく使うのですよね。
私は救われた。私はあの人に救われた。こんなことがあって、私は救われた。
というふうに、日常の生活の中に、救いという言葉をよく使いますけれども、要するに、助かったということですよね。
何か非常に困っていて、それがお金が無くて困ってたとして、お金を誰かが貸して下さって、私はあの人に救われた。
と、そういう使い方をすると思うのです。
では、その人はそれで一生、安楽に行くのかというと、それは必ずしもそうじゃない。
そのお金の問題は解決したとしても、また別の問題が起こってきますね。
我々の一生の間に、いろんな悩み事が起こってくる。
そういうこの世の日々の中で、我々がほんの日常の言葉として使う、救われたと。
そういうものではないのですね、宗教が云わんとする救われたというのは。
この世の救いというのは、有限的なんです。一時的なんですね。
早い話が、死ぬまでの話しですね。この世だけの話し。死んだら終いですね。
ところが、宗教の説く救いというのは、永遠の救いなんですよ。
一旦救われたら、もう壊れない救いなんです。
無間の救い。絶対の救いです。
それは、永遠というのを認めないと、成り立たない話ですよね。
無間の救い。永遠の救い。絶対の救いというものは、一旦救われたらずーっと続いて行く。
もう壊れることは無い。ということなんですから、それは私が救われ、貴方様が救われると、人間が救われるということですから、それは人間の何が救われるのかというと、人間というのはどうしても死ぬ。
死ぬと肉体は無くなる。
肉体というのは、私じゃないのですね。
魂なんですよね。霊魂なんです。
肉体はこの世で無くなるけど、霊魂はあの世へ続いていく。
その霊魂というのは永遠なんですよね。
それが生まれたり死んだり生まれたり死んだりと、変化しているだけのことであって、決して無にはならない。
その永遠の生命を本来持っているのだけれども、生まれたり死んだりという有限を彷徨うのですね。
無間の時間を、有限に小刻みに変化しながら、永遠の旅を続けているわけです。
その永遠でありながら、永遠になれずに有限になっているのですね。
その有限の中に、必ず苦しみがあるのです。
変化してしまうのですから、一旦楽になったと思ったら、また苦しいと。
病気になって死ぬかな、と思ったら助かった。
ところがやっぱり死ぬ。
病人さんが助かって、もう永久に助かってるのかというと、そうじゃない。
何れ死ぬ。
遅かれ早かれ死ぬのです。
そういう壊れていくものは、救いじゃないですね。
永遠に続いて行くものが、救いなんでしょ。
そうすると、前提は霊魂は不滅でなければ、そんな救いは成り立たないのですよ。
だから、宗教というものが永遠の救いを説くのは、霊魂が不滅でなければ、そういう救いは成り立たないのですから。仏教も含めてね。
だから宗教は成立しないから、また別の説き方をしないといけない。
今の人たちはそれをしているのですね。
何度も申していることですが、一般に正念場という言葉がありまして、これは一番肝心要の時と申しまして、一番大切な時。
そういう場合を、正念場と、こういうふうに使いますね。
これは元々仏教の言葉で、臨終正念という言葉があるのですが。
これは伝統的な仏教と申しますか、本当の仏教と言いたいのですが。
現在の仏教は、本当の位置から反れてきているように思うのです。
やはり昔の、法然上人とか日蓮上人とか一遍上人とか、宗派は違いますけれども、そういう昔の方々が説いてきた本筋は同じなんで、そういう昔の人々の説いた仏教というものは、やはりそれが正しかっただろうと、今の仏教はどうもおかしいと、和尚さんは思っているそうです。
それはいろいろあるのですが、その一番肝心なところと申しますと、死後の世界を認めるか、認めないかというところに帰着すると思うのです。
来世を認めるか、認めないかと、そこへ来ると思うのですね。
大雑把に言いますと、明治までの仏教は、大体どの宗派の人でも認めたように思うのです。
それから科学が日本へ入って参りまして。
その科学というのは、何でも証明していきますから。
そういうことで科学というのは、非常な信頼性があるわけですね。
ところが、霊魂というものはその科学というもので証明することが出来ない。
そこへ以て、証明できないことは無いということにはならないのだけど、でも無いというふうに思ってしまうのですね。
そこでたまたま仏教では、空。
色即是空の空とか、或いは、無我。という思想がございますね。
これは仏教の根本思想ですが、それがあの世が無いと、霊魂は無いのだと、いうふうに受け取ってしまっている。
これは非常に、浅はかな解釈ですね。
空とか無我というのは、そういう浅はかな意味と違うのですね。
機会があればこのお話しもさせて頂きますが。
そういうことで、伝統的な仏教からもして、あの世を認めていますから、あの世へ行ってどうする、こうする、どうなるかという問題が当然絡んでくるのですね。
死ぬということと密着して。
死んだら終いだというのと違うのですね、死んだらどうなるのだと、どうしたらいいのだと。
その問題が、重大な問題なんです。
具体的に申しますと、地獄があるわけですよ。
それを無いと思っているわけです。
極楽もあるわけですよ。
だから、地獄に行く人はどういう人が行くのか。
極楽へ行ける人はどういう人が行けるのか。
という問題が出てくるわけですね。
だから昔の人は、この世のことだけじゃない、後生のことばっかり考えていたわけです。
後生が大事。後生が大事だと。
それがやっぱり正しかったと思うのです。
『救いとは何か』
今の方々は、この世に重点を置いて、人間如何に生くべきかと。
いうような説き方をするわけですね。
それはあの世より、この世が大事だといっているのではなくて、おそらくはあの世を信じられないから、あの世は無いんだと。
そして仏教を説くとなると、やっぱりこの世を説くよりしようが無いですよね。
あの世を認めないのだったら、もう坊さんは必要ないと思うのですが。
あの世が無かったら、仏教は成り立たないのですよ。
仏教というより、宗教が成り立たない。
仏教とか、宗教とか、何処がどう違うか、という疑問の方もいらっしゃると思いますし、そんなことはよく分かっていると思われる方も勿論いらっしゃるはず。
この宗教の中に、仏教が入っているわけです。
宗教という範囲のほうが大きい。
その宗教の中に、仏教があり、キリストがあり、回教徒があり、なになに教というのが含まれているのですね。
だから仏教やキリストの包んだ宗教というもの。
あの世を否定したら、その宗教そのものが成り立たない。
宗教というものは、あの世を説くものなんですね。
分かり易く言いますと、救いを説くものですね。
宗教とは、救いを説くもの。我々人間の救いを説くものです。
救いとは何か。
救いという言葉は、我々はよく使うのですよね。
私は救われた。私はあの人に救われた。こんなことがあって、私は救われた。
というふうに、日常の生活の中に、救いという言葉をよく使いますけれども、要するに、助かったということですよね。
何か非常に困っていて、それがお金が無くて困ってたとして、お金を誰かが貸して下さって、私はあの人に救われた。
と、そういう使い方をすると思うのです。
では、その人はそれで一生、安楽に行くのかというと、それは必ずしもそうじゃない。
そのお金の問題は解決したとしても、また別の問題が起こってきますね。
我々の一生の間に、いろんな悩み事が起こってくる。
そういうこの世の日々の中で、我々がほんの日常の言葉として使う、救われたと。
そういうものではないのですね、宗教が云わんとする救われたというのは。
この世の救いというのは、有限的なんです。一時的なんですね。
早い話が、死ぬまでの話しですね。この世だけの話し。死んだら終いですね。
ところが、宗教の説く救いというのは、永遠の救いなんですよ。
一旦救われたら、もう壊れない救いなんです。
無間の救い。絶対の救いです。
それは、永遠というのを認めないと、成り立たない話ですよね。
無間の救い。永遠の救い。絶対の救いというものは、一旦救われたらずーっと続いて行く。
もう壊れることは無い。ということなんですから、それは私が救われ、貴方様が救われると、人間が救われるということですから、それは人間の何が救われるのかというと、人間というのはどうしても死ぬ。
死ぬと肉体は無くなる。
肉体というのは、私じゃないのですね。
魂なんですよね。霊魂なんです。
肉体はこの世で無くなるけど、霊魂はあの世へ続いていく。
その霊魂というのは永遠なんですよね。
それが生まれたり死んだり生まれたり死んだりと、変化しているだけのことであって、決して無にはならない。
その永遠の生命を本来持っているのだけれども、生まれたり死んだりという有限を彷徨うのですね。
無間の時間を、有限に小刻みに変化しながら、永遠の旅を続けているわけです。
その永遠でありながら、永遠になれずに有限になっているのですね。
その有限の中に、必ず苦しみがあるのです。
変化してしまうのですから、一旦楽になったと思ったら、また苦しいと。
病気になって死ぬかな、と思ったら助かった。
ところがやっぱり死ぬ。
病人さんが助かって、もう永久に助かってるのかというと、そうじゃない。
何れ死ぬ。
遅かれ早かれ死ぬのです。
そういう壊れていくものは、救いじゃないですね。
永遠に続いて行くものが、救いなんでしょ。
そうすると、前提は霊魂は不滅でなければ、そんな救いは成り立たないのですよ。
だから、宗教というものが永遠の救いを説くのは、霊魂が不滅でなければ、そういう救いは成り立たないのですから。仏教も含めてね。
だから宗教は成立しないから、また別の説き方をしないといけない。
今の人たちはそれをしているのですね。
作品名:和尚さんの法話 「臨終の一念」 作家名:みわ