和尚さんの法話 「臨終の一念」
お医者さんは、今死んだというときを、ご臨終と言いますが、そうじゃなくて、これから死んでいくというときが臨終なんです。
読んで字の如く、終りに臨む。
仏教の本来の意味では、これから死んでいくというときを臨終というのです。
その臨終の一瞬の時が、後生を決定するというのです。
あの世で何処へ行くか。
つまり冥福の場所へ行けるかどうか、ということが、この一瞬で決定するといっても過言ではないと思うのですね。
そこで一番大事なのが、臨終に正念でなければ受け付けませんから。
たとえ平生健康なときに、百年間悪いことばっかり、人も殺し、物も盗るというようなことをたとえしてきた人でも、その臨終の瞬間に、本然として善知識の言うことを聞いて、例えば浄土門でしたら、南無阿弥陀仏と信じて称えて息絶えた。
そうするとその人は、地獄に行かずに極楽へ行く。
臨終の一念は、平生百年の業に勝る。と、説いてあるのです。
これは良い方もそうなら悪い方もそうですから、百年間ずうっと良いことばっかりしてきているのに、死ぬ瞬間に、ほっと悪念を起こし、妄念が起こった。
となったら、その人は本当ならいい所へ行けるはずなのに、臨終の一念で以って、全部今までの功徳を潰してしまう。
『滅尽定』
これも他のお話しにあると思いますけれども、お釈迦様のお弟子の中に或る方が居られまして、その人が覚りをとり間違えていたのですね。
阿弥陀経に出てくる舎利弗、目連、摩訶迦葉とかいう阿羅漢という方がいらっしゃいますね。小乗の言葉で言いましたら、阿羅漢というのですが。
それは、生まれたり死んだり生まれたり死んだり、という輪廻を解脱した人たちなんですね。
その解脱をするために、座禅を組むのです。
禅定といって、お釈迦さまが説いてある禅は、八つあるのですね、四禅八定といって段階がね。今はそんなことは言わないのですがね。
その段階の一段づつ間違えていたのですね、その人は。
一番上の阿羅漢になる、つまり六道とか三界とか輪廻とかいう迷いの世界を飛び越える、その境地。
その境地は、滅尽定という禅定を体得しないと成れないのです。
滅尽定。一切の煩悩を滅してしまうという禅定。
煩悩を滅し尽くしてしまう。
その境地が、まずは無我なんです。無念無想ですね。
だから自分が滅尽定に入っているときは、今自分はこうの滅尽定だというのが分からないのです。
全く無念無想ですから、文字どうり無念無想なんです。
そしてその滅尽定から戻ってくる。意識が戻ってくる。
その滅尽定のときはもう意識は無いのですから。
意識が消えているのです。
我々は意識意識と言いますが、意識不明といいますね。
要するに意識不明になってしまっているのです。
この意識が我々人格の中心なんです。
日常生活の中心は、この意識なんです。
この意識が、煩悩の親方なんですね。煩悩の宿ですね。
滅尽定に入ったら、これが無くなってしまうのですね。
だからこの滅尽定に入って、戻ってくる。
意識が帰ってくるのですね。
そうしたときに、今自分は滅尽定に入っていたのだなと、回想するのであって、入っているときは分からない。
もう死んでいるのと一緒なんですね。
そうお経に説いてあります。
だから、この滅尽定に入った人と、もう本当に死んだ人と比較したときに、全く同じような状態なんですね。
身体はちっとも動かないし、息は止まるし、心臓は止まるし、脳波は止まるし。
ただこの滅尽定に入った人と、死んだ人の違いは、体温があるか、無いかです。
今は機械を付けますから分かりませんね。
本当は死んでいたって機械を付けるから、血も通うし、体温もある。
だから機械を外したら、実際に冷たくなってしまうのですからね。
だから機械は無しで、本当に死んだと、そしてこの滅尽定に入っている人と、外から見て何の区別があるかというと体温があるのです。
また戻ってくるのですから、生きているのですからね。
ところが、死者はもう戻らないのですから。
滅尽定というのは肉体の中に、阿頼耶識という識が身体に付いているのです。そこまで消えていくのですね。
五識というのがあって、意識が消える。
この阿頼耶識というのと末那識というのが二つあって、それが滅尽定になっても身体から外へは出ない。
ところが死んだ人はそれも皆、外へ出てしまう。
だからこの阿頼耶識というのが、肉体に残っている限りは、死んでいないということです。
だから身体は必ず温かい。
だから昔のお医者さんは、身体の体温ということを非常に重要にしていたのですね。
今はもうその体温が生死の判定にはならないですね。
和尚さんが以前に、臨死体験にちなんだお話しをされていますが、臨死体験とか、脳死とか、心臓死とかありますね。
機械を付けるのは仏教からいうとまことに、おかしくなってくると。
本当なら死んでるはずの人を生かしているわけでしょ。霊魂はもう抜けていってるんだけど、機械を付けているために、血が通っているし、体温はあるしね。
ですが本当はもう死んでるんだということになると、中陰がどうなるかということですね。
中陰というのは、本当に死んだ時から始まっているのです。
初七日、二七日、三七日・・・とね。
その間に、少しでも良い所へ生まれてもらうためにお勤めをせんならんのですよね。
ところが、機械を付けているがために、ほんとうは霊魂は抜けて中陰へ入っているのに、初七日たっても、二七日たっても葬式はしない。枕経もしない。お通夜も無い。
仏教からいうと、これは問題なんですよ。
霊魂が有るか無いかということになると、そういう問題が絡んでくるわけです。
お医者さんのほうでもそうでしょうけど、仏教からいうと大変なことになってくるわけなんですね。
後生が大事なのに。その後生が一番関係があるので。
脳死というのは、もう霊魂が抜けた状態なんですね。
昔は機械を付けていないから、脳死と心臓死と一緒に来たのでしょ。
だから問題は無かったけど、今はおかしなことになってきますうね。
植物人間というのはまた違ってきますよね。まだ生きているのですから。
まだ意識が戻ってこないだけだから。
脳死というのが問題なんですね。
もう死んでいるのに、中陰がどんどん過ぎていってしまうのに、機械で以って止めているから、満中陰も過ぎてしまう。そういうことになってくるわけです。
そういうことから考えても、後生というのは大事になってくるわけなんです。
あの世が無いなら何も問題にはならんのですが、あの世があって、我々のこの世の行いによって、其々の行くところが違う。
その少しでもいい所へ行かせましょうというので、七日目七日目のお勤めをするわけですが、あれは毎日やっていたっていいのですよ。
初七日たって、生まれ変わる人。
二七日たって生まれ変わる人と、一週間ごとに生まれ変わっていくのでね。
それで生まれ変わらない先に、功徳を送ってあげましょうという勤めになっているわけです。
単なる仕来たりではないのです。
作品名:和尚さんの法話 「臨終の一念」 作家名:みわ