風の詩が聞こえるかい
男は、エンジンを止め、車から降りた。
緑と湿気った土の匂いを陽射しの熱が持ち上げる。鼻に匂いが入り交じる。
むせかえしそうでもあるが、空気の気持ちよさにめいっぱい深呼吸をした。
ふとバイクからさかのぼった辺りで影が動いたのに気付いて目を向けた。
僅かな木の間から零れるように流れる湧き水を手に受けている人がいた。
(あ、会えた……きっとあの人だ)
「こん…こんにちは」
男は、山に響くかと思うほど息急き切ったように声をかけた。
振り返ったその人は、男の予想通り 女性だった。
女は、男を見ると、無言でバイクの方に戻って来た。
ライダースーツの前のファスナーを少し下げ、胸元からはプリントされたTシャツが僅かに覗いて見えた。
すぐに反応のない女に ちぇっ、スカしているのかと男は、呆れた気分になった。
「こんにちは。先ほどは、道を譲ってくださってありがとう」
女は、男に近づいた辺りで そう返事した。
男は、思わず俯き、照れくさそうに口元を歪めた。
(やばいな。きっとすげぇにやけてるかもしれん…)
「あ、あ、あいやぁ。のんびり走ってたんで、先にどうかと……おひとりですか?」
「ええ、まあ。あ、どうぞ。あの水にお車停めたのでしょ。お先に」
「あの水?」
「ええ、とても冷たくて、それに綺麗で美味しい」
「そうなんですか……」
そう聞いては、貴女を追いかけてきました、というのは躊躇われた。
男も その水を手に受け、口へと運んだ。云われるとおりだと女のほうを見返した。
女は、ライダースーツを整え、髪を纏め、ヘルメットを被ろうとしていた。
「あ、待って」
男は、思わず呼び止めた。
「美味しい水でした。教えてもらって良かったです。知らずに見過ごすところでした」
「そ。それは、良かった。此処は自然に守られて、いつも優しく迎えてくれるところですね」
そういって女はヘルメットを被り、バイクに跨るとシールドを上げて一礼をした。
「もっと顔が見えたらいいのに」
男は、その傍にやや近づいた。
「以前は、ジェットヘルメットだったけど、女性とわかると走行の邪魔をする人もいてね」
女は、初めて笑みを零した。
男は、何となくその意味がわかるほど、女の顔に目が留まったままだった。
作品名:風の詩が聞こえるかい 作家名:甜茶