和尚さんの法話 「お経を実行する」
もう一つの話は、これとよく似ているのですが。
旅をしている或るお婆さんがいるのです。
話を聞いていると見えてきたわけです。
そのお婆さんが旅で疲れてしまって、道端に座り込んでいるんですね。
そこへ一人の武士が通りかかるんです。
そしてそのお婆さんにどうしたんだということで看病をしてあげるんですね。
するとそのお婆さんが懐から何か出してその武士に頼んでるんです。
それで武士はよし分かったというようなことで受けたんですね。
そこで消えてしまったそうです。
たぶんそのお婆さんは、自分はもうここで助からんと思ったので、通りかかったその武士に、武士は嘘は言わんものだと思って頼んだ。
ところがその武士は自分のものにしてしまった。
なんのためにそういうのが見えてくるのかというとそういうことなんですね。
だから現在は、そんな過去の前世のことは分かりませんから、可哀相に可哀相に、あいつは悪いやつだ可愛そうにと、されたものに同情しますけれども、それを前世でやってあるんですよね。
これが前世だから分からんから、同情するんですが、同情するのはいいんですよ。
同情するのはいいんですけれども、これが昨日やったことが今日あったことなら、だまあみろと思うでしょう。
なにが可哀相なものか、自分が悪いんじゃないかと。
昨日の結果が今日出たのならそうなりますね。自業自得だと。
同情はしませんね。
昨日や一昨日やその原因が分かってたならその結果だからね。
ところが前世でやったことが分からないから可哀相に可哀相にと思うわけです。
我々は幸か不幸かそれは全く知りませんから、丸々同情しますね。
同情するのはけっこうですが、偶然そういうことが起こるんじゃないんだということです。
これは善いことも悪いこともですよ。
またもの凄く困った人が、もの凄く助かるということもありますね。
困ったときにいい人が出て来て助けてくれたと。
それはやっぱり前世で誰かを助けてあるからですね。
仏教はそういう人生観です。
それを三世の因果といいます。
それを説いてるお経ですねこれは。
次は両舌。両舌の罪は、破壊ですね。
例えば家が没落するようなことです。
親戚だからほとおくわけにいかない。
だからそれに犠牲を払うことになりますね。
それは両舌の報いだということです。
それともうひとつきつい罪は、親戚がすっからかんになってしまう。
だから余計に助けてあげないとしようがない。
だから親戚でそういう不幸な人が出来るということも、けっして偶然じゃない。
逆に親戚に成功するような人が出来ると、金銭的になにもなくても鼻が高いですよね。
『三世の因果』
あれは家の親戚ですねんと。
ほお、あそ人はあの大臣の親戚ですってということでね。
ということになったらちょっと鼻が高い。
というようなことで、良きにつけ悪きにつけ親戚でも皆親戚に持ったのも偶然ではない。
だから友達もそうです。
良い友達に遭うのも悪い友達に遭うのもそれぞれの因縁があるからなんです。
悪口の罪は。悪口の罪もまた地獄、餓鬼、畜生に落ちる。
人間に生まれるも、二種の果報を受ける。
一には常に悪声を聞く。
人に悪い評判ばかり言われる。
これは自分が前世にしてあるからですね。
二には、友達とか親戚とかなにかあると争いが起こる。
なにかあると喧嘩になってくる。と、いうような報いですね。
これが悪口の報いです。
綺語の罪。へつらいですね。
これも地獄、餓鬼、畜生に落ちる。
若し人間に生まれても、二種の果報を受ける。
一には、いくら本当のことを言っても人は信じてくれない。
それは前世で両舌をしているからですね。
二には、なにか落ち度ができてくるけれども、弁解しても誰もそれを信じてくれない。
悪いほうへ悪いほうへとられてしまう。
我々はいろんな、その幸福は幸福、不幸は不幸。
それは決して偶然ではなくて過去の因縁の結果としてきてるんだということです。
その因果を知ることが仏教の第一課ですね。
それは三世の因果というものを知るということ。
この世だけじゃなくて、前世、この世でやったことが来世に。
地獄、餓鬼、畜生というのは来世ですが、それからまたこの世へ生まれてきたときに更に余罪というのが残ってる。
その余罪が二種とそれぞれにありましたが、二種だけじゃなくてそれはもっといろいろとあるに違いないですね。
それは、お釈迦様が或るときに、弟子を連れて歩いているときに犬がいて、犬の親子が寝そべってるんですね。
子犬は五匹ほどいるのですが、一匹の子犬が乳を吸いにいくと親犬が怒るんです。
同じ親の此犬のはずなのに、他の子犬は乳の飲んでるのに、その一匹の此犬が乳を飲みにいくと怒るんです。
それを見て弟子たちが不思議だなあと思うんです。
それでお釈迦様に、どうしてあの一匹の子犬にだけは乳を飲まさないのですかと聞きました。
お釈迦様はその犬の前世をずっと観るわけです。
かつてこの子犬は人間として生まれていたときに、主人を早くに亡くしていて子供をかかえて、親子で盗みをしていたというのです。
他の子供は盗んだものをすぐに母親に持ってきたけれども、一人の子供だけは自分が先にいいものを取り込んでしまって、要らないものだけを母親に持っていったんです。
その親子が盗みの報いを受けて地獄へ落ちた。
その地獄の余罪がまだ残っていて、畜生になって生まれてきたわけです。
同じように地獄に落ちたけど、他の子供は盗んだものを親のところに持っていったけれども、その子だけが自分だけ先に取り込んだ。
その報いで乳を飲ましてもらえないんだというお話があるのです。
今日では昔と違って犬でも猫でもだいぶ幸せな犬や猫がでてきていますけど、それは偶然と違うんです。
それは、怪我をしたり病気になるとすぐに病院へいくし、病気が治るようにと温泉まで入れてもらって、死んだら先祖より立派な墓まで建ててもらってる犬もありますね。
犬は犬ですから、人間と違うんだから、そんなことをしても犬のためにならないのです。
逆に不徳になるのです。
そんな墓を建てた人も不徳になるんです。
犬は犬なりに、猫は猫なりにしたほうがいいですね。
そこまではなくても今の犬や猫は昔と違って幸せですね。
それは、犬は犬なりに、猫は猫なりにそれなりに前世でなにかあるんですよ。
全部そうなんですよ。
偶然じゃないんです。
それを信じるのが仏教の生方で、それを否定するのが邪見と言うのです。
あの人は邪見な人やというけど、その邪見じゃないんですけれども、間違った考えをするからその人は因果の道理を無視したような考えを邪見という。
それが仏教の根本の指導原理です。
兎に角、善いことをして悪いことをしなさんなということです。
白楽天という或る詩人がいて、道を歩いているとき松ノ木があって、ひょっと上を見ると松ノ木の上で座禅を組んでる坊さんがいたんです。
それで、「仏教とは一言でいうと仏教だが、その中心はなんですか」
と下から問うたんです。
すると坊さんが、「衆善奉行諸悪莫作」と答えた。
作品名:和尚さんの法話 「お経を実行する」 作家名:みわ