和尚さんの法話 「お経を実行する」
この綺語というのは、形はそうなっているけれども、この人は目的がある。
自分の利益を得ようと思って、おべっかを使っているのです。
これは業になるんです。
それから、貪瞋痴です。貪欲と、怒りと、愚痴と。
この愚痴というのは、小言が多いのが愚痴ではなくて、その言葉の出る原因ですね。
例えば、姑さんがきついとか、お嫁さんがきついとか言う場合に、近所の人にうちの姑さんが、或はお嫁さんっが、と言う。
その言葉が愚痴ではないんです。
なんでその言葉が出るかということを分かってないんですね。
これは自分の運命だというように割り切れたらそこでその言葉が出ないはずなんですよね。
それを飲み込めないで、兎に角人に訴えたいという言葉を一般には愚痴といいますね。
ですが、それは愚痴ではなくて、言葉の出る原因が問題なんです。
仏教は、原因があって結果が来るという教えです。
その原因がこの世であるか、前の背であるか、その前の世であるか、ずっと前の世であるかそれはわからんのですこれは。
分からんけど兎に角原因があって、そして現在が幸福であるか不幸であるか皆来てあるのです。
だからきついお嫁さんが来たということは、自分がかつてきつい嫁さんであったんだということです。
かつて自分が嫁を苛めたのだということです。
だから今自分が嫁から苛められる。
或は姑に苛められるということは、かつて自分が姑を苛めたんだということです。
兎に角、過去に自分がやったことが返ってくるということです。
それが因果の道理です。因果経というのはそういうことを説いてあります。
だから自分がきつい嫁、姑にあたったら、かつて自分が苛めたんだと信じられる。
そして苛められたらそれだけ自分の業が消えていくのです。
だから一つ災難にあったら一つ業が消えたんだと、そう思ったらいいのです。
なんで自分だけがこんな目に遭うたんだと思わずに、一つ業が消えたのだからありがたいなと思えば、ぐだぐだと言葉になって出て来ない。
だから口から出る言葉が愚痴じゃなくて、言葉の出る原因、因果の道理に愚かという意味です。
それを愚痴というのです。因果の道理を知らないから、だから言葉になって出るろいうことです。
殺生、偸盗、邪淫、妄語、悪口、両舌、綺語、貪、瞋、痴。これを守れば十善。
犯せば十悪になるのです。
諸の苦しみは、この十悪が原因だということです。
どれかによって起こってくるんだという意味です。
十悪のきつい悪で、上の十悪は、地獄の苦しみの因縁を作る。
中は畜生の因縁。下は餓鬼の因縁。これは餓鬼と畜生と逆になってる場合もありますけどね。
中において殺生の罪は、地獄、餓鬼、畜生道に落ちる。
上中下の悪の場合、地獄へ落ちる人もあり、餓鬼に落ちる人もあり、畜生に落ちる人もある。
『水野南北』
また、いったんあの世へ行って、この世へ生まれ変わってくる、人間に生まれてきても、その報いとして二つある。
たくさんあるのだけれども、大雑把に分けると二種類になる。
一つには、短命。
だから非常に命の短い人は、殺生の業がある。
二には、多病。
命はあるけれども、非常に、一生病気である。
それは殺生の業がやや弱いのですね。
前にもお話を書きましたが、人相の本を書いた水野南北という人がいて、その人は、元は浪人で武士だったのですけれども、或るときに、あんまり自分の運命が悪いので、冷やかし半分になんとかいいことでも言うてもらったらそのぶんだけでも気がいいと思って見てもらったら、あなた様は不幸な人だと言われて、大きな大難が二つあって、幾つのときに剣難の相があって、これはまあ助かる。
それから更に何年かたって、剣難の相があって、これはおそらく命にかかわる。
と、こう言われた。
なにかいいことでも言うてくれるかと思うて観てもらったのに余計に気が弱るようなことを言われてしまった。
それから最初の剣難にあって、そしてびっくりして昔に剣難の相があると言われたのを思い出した。
剣難の相は二つあると言われて、一つは助かるが後のは助からんと言われた。
それを思い出してびっくりして改めてその易者を訪ねていって、昔あなたにこういうことを言われて助からんと。
たしかにあなたに言われたとおりに剣難に遭いました。
これはまあ助かると言ったが助かった。
後は助からんと言いましたが、どうですか。
ああ、なるほどあなたは前に来たことがある人だ、覚えています。
これは、助からんです。と言われたのです。
が、然しなんとか助かる方法を教えて頂きたい。
いや、もうこれは助からんのです。
然し、なんとか。
と、あんまり言うものだから善いと思うことはなんでもして、悪いと思うことはなんでもするな。
特に殺生をするな。
そして贅沢をしないでなるべく節約をしなさいと。
そして、信仰をしなさいと言ったのです。
そしてそのまま日がたっていくわけです。
その間にそのことを忘れたり思い出したりしながらね。
で、或る日に酒場で喧嘩になってきて切りあいになってきたんです。
武士同士で切りあいになって、格好だけは刀の柄に手をかけたけど、腕に覚えがあるわけでもない。そこへもって相手は三人。
そのときに思い出したんです今年だなと。
死ぬといわれたのが今年だったと思い出したんです。
そうすると、ここで死ぬのかもわからんなと。
然しながら、まだ死にたくない。
ここで切りあったら相手は三人だから負ける。
これはもう逃げるより他は無い。
昔は、武士は逃げるということは恥とされていた。
恥をかくか死ぬか、どちらを選ぶかというと死のほうを選んだ時代でしたね武士は。
恥というのを非常に忌み嫌ったんですね。
ところがこの南北は、死にたくない。
逃げなければこれは助からん。
助かろうと思ったら、逃げなければしょうがないが、恥ではあるけれども自分は死にたくない。
そして油断の隙を見て逃げたんです。
然し後ろから切られるんですが、怪我で助かったんです。
それから反省して、世の中には運命というものがあると。
運命というのは仏教でいうと因縁なんです。
一般の言葉で言えば運命。
運命というのは決まってある。
決まってあるから前から分かるんですから。
易者は宗教家じゃないから原因ということを言いませんが、仏教では因があって、果があって、この因のほうを大事にいうのです。
それでもその人は大勢の人を見ていると、自然にその真理に到達していくんですね。
信仰して悪いことをするな、善いことをして殺生をしない。
これは仏教の教えと同じですね。
それで助かって、自分は浪人してどうということはないんだから世の中には運命というものを信じないがために、怪我をしなくていいのに怪我をする。
自分がそうだ。
自分があのときに運命を信じてたら怪我はせずにすんでたかもわからない。
そして二回目は、命は無いと言われたけどれども一所懸命に努力をしたら助かった。
努力をしなかったら死んでいたに決まってる。
作品名:和尚さんの法話 「お経を実行する」 作家名:みわ