和尚さんの法話 「お経を実行する」
葬式や法事でお坊さんにお経を読んでお勤めをしてもらう。
亡くなられた方の冥福をお祈りするということは非常に大事なことでございますが、それにも増して生きていく人にこういう教えがありますということがあると、それのほうがむしろ大事なんです。
ご承知のとうりお釈迦様は、最後の最後までご説法をなさったわけです。
弟子たちに、お前たちはもう訊ねることはないかと聞いて、弟子たちがもうございませんというて、お亡くなりになったわけです。
このお釈迦様のお説法がお経というようになってきているのですね。
文字として伝えられてきたのがお経でございますね。
お釈迦様が、私が説法するからそれをお経にして読みなさいといって説法していたのではなくて、こういうことをしたらいかん。
こういうことをしなさいということを、実行しなさいということを要請したわけです。
仏教というのは実行なんですね、なんでも実行は大事ですけど、実行しないで頭で考えていたって、生死解脱ということは出来ないですね。
実行ということが大事なんで、お経にあることを我々が実行するのを本来の建て前です。
お釈迦様はそういう意味でお経ということで残してこられたわけですけれども、然しながら、このお経の内容は、逐一実行するということは並大抵のことではない。
僧侶でも難しいことなのに、一般の者には仕事の傍らに実行するというのは難しいことですね。
写経をするということをなさる人もいるけど皆がするわけではないですから。
然しながらお経を読む。
或はお坊さんにお布施を出して読んでもらうということは出来ますね。
お釈迦様は真理を説いているのですから、我々はこうしたら救われる。
こうしたら救われないぞという真理を説いてるんですね。
ですからそのお経の中にその真理が文字として含まれているわけですから、そのお経を読んで死者に手向ける。
ということによってその手向けられた死者は冥福、冥途の幸せですね、あの世の幸せを得られるわけなんです。
そして100%死者の冥福を祈ったはずなのに七分の一の功徳が向こうへいって、七分の六の功徳は勤めた施主に来るいうことになっています。
だから勤めるのも、向こうのためにするのだけれども、結局、結果的には自分のほうが、功徳が大きくなる。
ですので、仏事というのは大きな功徳になる。
しかも生きている人のほうが功徳が大きい。こういうことです。
そういう冥福という言葉とか仏事の行事ですが、あの世というのがあってのことでの言葉であり行事ですわね。
あの世というのが無かったら、意味がないですよね、ただの奇麗事に過ぎない。
自分の気休めか、或は付き合いか、それくらいの意味しかないのではないかと思います。
お経というのは、最前申したように、こういうことをしなさい、こういうことをしたらいかんと、二つに分けたらそういうことです。
例えば阿弥陀経がごいますね。その中に若一日、若二日、若三日・・・とございますね。
同じ言葉が七つ出てくるから印象に残ると思うんですよ、阿弥陀経を聞かれた人は。
あそこのところはいったいどういうことを説いてあるのかといいますと、これから亡くなっていくという人の命の長短をいってるわけなんです。
若しくは一日、若しくは二日と、つまり臨終ですね。
これから死んでいくという人が、再び健康に戻る望みは無い。
ただもう時間がたつのと同時に死に近付くばかりだと、そういうときですね。
『十善十悪』
そのときに、阿弥陀様の名前を一心不乱に称えたならば、その人が命終わるときに阿弥陀様が諸の諸仏と共にその人の前に現れる。
そしてその人が終わるときに、心顛倒せずして阿弥陀仏の極楽に往生することを得る。
だからお念仏を称えなさいと説いているのです。
念仏を要請しているわけなんですね。
お経というのは全てそうなってあるのです。
こうしなさい、こうするなと。
これからご紹介をするお経があるのですが、『善悪業報因果経』というお経ですが、そのものずばりです。
長いお経ですが、その中から幾つか引き出してご紹介したいと思います。
「仏、阿難に告げ給く」
阿難一人に言ってるんじゃないんですが、お経の中には、必ずこの人とか、或はこの人とこの人とか、ほんの一人か二人を対象に説いていますね。
他の人はそれをじっと、聞いているわけです。
そういう形になって、ここでは阿難。
阿難というのはお釈迦様のお弟子であり、従兄弟ですね。
ずっとお釈迦様のお側でお給仕をしてきた方ですね。
その阿難に告げ給う。先ほどから説いてきたところの様々の苦しみ。
こんなことをしたらこんな苦しみがあり、こんなことをしたらこういう苦しみがあると、そういうのをいう様々な苦しみは、皆十悪業によると。
仏教では、十善十悪というて、代表的な善悪を十あげてるんですね。
それは不殺生と、逆に悪いほうは殺生です。十悪のほうが殺生。
それから偸盗といって、盗み。
十善はそれをしないことですね。
それから邪淫、不倫ですね。
それから妄語、嘘ですね。悪口。両舌。
この妄語と悪口と両舌はよく似ているのですが、両舌というのは、或る二人の人と付き合ってるんですが、こっちへいったらもう一人のことをいいことを言わないで自分に利益が来るように言う。
向こうへ行ったらまたもう一人のことをいいことを言わないでうまいことを言う。
だから両方から利益が来るわけです。
二枚舌というのですね。
嘘みたいなものですがね、妄語は嘘をもうひとつ細かく分けたものですね。
普通の嘘というのはその人に対して自分に利益になるように嘘を言うけど、両舌はこっちと、もう一人いるわけです。
それから綺語。これはおべっかですね。
このおべっかというのもこれは業になるんですね。
おじょうずを言うことですね。
おじょうずというのは、和顔愛語というのとちょっと違うわけです。
この愛というのは、仏教では煩悩のことをいうのです。
渇愛という言葉があるんですね。この渇というのは飢えた状態なんですね。
かつれた状態ですね。喉が渇いて水が飲みたくて飲みたくてと、お腹が空いて飢えた状態と一緒なんです。
水が欲しい、食べたいと、求めて行くという根本を愛というのです。
渇というのを付けても付けなくても一緒なんです、渇が愛なんです。
仏教では慈悲というのも愛ですね。
この場合は、我々が日常に使うのをいっていますね、和顔愛語。
平和な柔らかい顔立ちで、そして優しい言葉を使いなさいと、お釈迦様はおっしゃっているのです。
ところで、綺語というのは形のうえでは似ているのだけれども、自分が利益を得るためにきついことを言うと利益になりませんから、優しいようにおじょうずに言うたら何か利益が回ってくる。
そうでしょ、あの人は親切な人やなあ、あの人になにかしてあげたいなという気持ちになってきますね。
ぽんぽんといつも言われていたら、あんな人ほっとけとなるでしょ。
この愛語というのは、人に悪い気持ちを起こさせないように優しい気持ち、優しい顔で接する。
亡くなられた方の冥福をお祈りするということは非常に大事なことでございますが、それにも増して生きていく人にこういう教えがありますということがあると、それのほうがむしろ大事なんです。
ご承知のとうりお釈迦様は、最後の最後までご説法をなさったわけです。
弟子たちに、お前たちはもう訊ねることはないかと聞いて、弟子たちがもうございませんというて、お亡くなりになったわけです。
このお釈迦様のお説法がお経というようになってきているのですね。
文字として伝えられてきたのがお経でございますね。
お釈迦様が、私が説法するからそれをお経にして読みなさいといって説法していたのではなくて、こういうことをしたらいかん。
こういうことをしなさいということを、実行しなさいということを要請したわけです。
仏教というのは実行なんですね、なんでも実行は大事ですけど、実行しないで頭で考えていたって、生死解脱ということは出来ないですね。
実行ということが大事なんで、お経にあることを我々が実行するのを本来の建て前です。
お釈迦様はそういう意味でお経ということで残してこられたわけですけれども、然しながら、このお経の内容は、逐一実行するということは並大抵のことではない。
僧侶でも難しいことなのに、一般の者には仕事の傍らに実行するというのは難しいことですね。
写経をするということをなさる人もいるけど皆がするわけではないですから。
然しながらお経を読む。
或はお坊さんにお布施を出して読んでもらうということは出来ますね。
お釈迦様は真理を説いているのですから、我々はこうしたら救われる。
こうしたら救われないぞという真理を説いてるんですね。
ですからそのお経の中にその真理が文字として含まれているわけですから、そのお経を読んで死者に手向ける。
ということによってその手向けられた死者は冥福、冥途の幸せですね、あの世の幸せを得られるわけなんです。
そして100%死者の冥福を祈ったはずなのに七分の一の功徳が向こうへいって、七分の六の功徳は勤めた施主に来るいうことになっています。
だから勤めるのも、向こうのためにするのだけれども、結局、結果的には自分のほうが、功徳が大きくなる。
ですので、仏事というのは大きな功徳になる。
しかも生きている人のほうが功徳が大きい。こういうことです。
そういう冥福という言葉とか仏事の行事ですが、あの世というのがあってのことでの言葉であり行事ですわね。
あの世というのが無かったら、意味がないですよね、ただの奇麗事に過ぎない。
自分の気休めか、或は付き合いか、それくらいの意味しかないのではないかと思います。
お経というのは、最前申したように、こういうことをしなさい、こういうことをしたらいかんと、二つに分けたらそういうことです。
例えば阿弥陀経がごいますね。その中に若一日、若二日、若三日・・・とございますね。
同じ言葉が七つ出てくるから印象に残ると思うんですよ、阿弥陀経を聞かれた人は。
あそこのところはいったいどういうことを説いてあるのかといいますと、これから亡くなっていくという人の命の長短をいってるわけなんです。
若しくは一日、若しくは二日と、つまり臨終ですね。
これから死んでいくという人が、再び健康に戻る望みは無い。
ただもう時間がたつのと同時に死に近付くばかりだと、そういうときですね。
『十善十悪』
そのときに、阿弥陀様の名前を一心不乱に称えたならば、その人が命終わるときに阿弥陀様が諸の諸仏と共にその人の前に現れる。
そしてその人が終わるときに、心顛倒せずして阿弥陀仏の極楽に往生することを得る。
だからお念仏を称えなさいと説いているのです。
念仏を要請しているわけなんですね。
お経というのは全てそうなってあるのです。
こうしなさい、こうするなと。
これからご紹介をするお経があるのですが、『善悪業報因果経』というお経ですが、そのものずばりです。
長いお経ですが、その中から幾つか引き出してご紹介したいと思います。
「仏、阿難に告げ給く」
阿難一人に言ってるんじゃないんですが、お経の中には、必ずこの人とか、或はこの人とこの人とか、ほんの一人か二人を対象に説いていますね。
他の人はそれをじっと、聞いているわけです。
そういう形になって、ここでは阿難。
阿難というのはお釈迦様のお弟子であり、従兄弟ですね。
ずっとお釈迦様のお側でお給仕をしてきた方ですね。
その阿難に告げ給う。先ほどから説いてきたところの様々の苦しみ。
こんなことをしたらこんな苦しみがあり、こんなことをしたらこういう苦しみがあると、そういうのをいう様々な苦しみは、皆十悪業によると。
仏教では、十善十悪というて、代表的な善悪を十あげてるんですね。
それは不殺生と、逆に悪いほうは殺生です。十悪のほうが殺生。
それから偸盗といって、盗み。
十善はそれをしないことですね。
それから邪淫、不倫ですね。
それから妄語、嘘ですね。悪口。両舌。
この妄語と悪口と両舌はよく似ているのですが、両舌というのは、或る二人の人と付き合ってるんですが、こっちへいったらもう一人のことをいいことを言わないで自分に利益が来るように言う。
向こうへ行ったらまたもう一人のことをいいことを言わないでうまいことを言う。
だから両方から利益が来るわけです。
二枚舌というのですね。
嘘みたいなものですがね、妄語は嘘をもうひとつ細かく分けたものですね。
普通の嘘というのはその人に対して自分に利益になるように嘘を言うけど、両舌はこっちと、もう一人いるわけです。
それから綺語。これはおべっかですね。
このおべっかというのもこれは業になるんですね。
おじょうずを言うことですね。
おじょうずというのは、和顔愛語というのとちょっと違うわけです。
この愛というのは、仏教では煩悩のことをいうのです。
渇愛という言葉があるんですね。この渇というのは飢えた状態なんですね。
かつれた状態ですね。喉が渇いて水が飲みたくて飲みたくてと、お腹が空いて飢えた状態と一緒なんです。
水が欲しい、食べたいと、求めて行くという根本を愛というのです。
渇というのを付けても付けなくても一緒なんです、渇が愛なんです。
仏教では慈悲というのも愛ですね。
この場合は、我々が日常に使うのをいっていますね、和顔愛語。
平和な柔らかい顔立ちで、そして優しい言葉を使いなさいと、お釈迦様はおっしゃっているのです。
ところで、綺語というのは形のうえでは似ているのだけれども、自分が利益を得るためにきついことを言うと利益になりませんから、優しいようにおじょうずに言うたら何か利益が回ってくる。
そうでしょ、あの人は親切な人やなあ、あの人になにかしてあげたいなという気持ちになってきますね。
ぽんぽんといつも言われていたら、あんな人ほっとけとなるでしょ。
この愛語というのは、人に悪い気持ちを起こさせないように優しい気持ち、優しい顔で接する。
作品名:和尚さんの法話 「お経を実行する」 作家名:みわ